油屋の営業が終わり、灯篭の火のほとんどが消え、闇が深まる頃。
千尋は廊下の欄干に手をかけ、足を外に放り出し、ぶらぶらとさせながら、草原の上にぽっかりと浮かぶ月を眺めていた。
「どんしたんだ?千。今日はハク様お迎えに来ないのか?」
千尋が欄干にもたれ、風を頬に受けながら風呂上りの火照る肌を覚ましているところに、背後から声をかけられる。
声の主が誰か、彼女はすぐに分かって、視線を少しだけ向け、声の主がやはりリンだと確認すると、「うん」とだけ返答し、視線をまた草原へ戻した。
「ハクの・・・・ばか・・・・」
溜息混じりに千尋は呟く。
「どうした?またハクに何かされたのか?」
リンは千尋の隣に座ると、首を傾げる。
千尋は暫し言いにくそうに沈黙を保っていたが、やがて渋々と口を開いた。
「ハクに・・・大嫌いって言っちゃったの」
「ほお」
千尋にはどうしてそんな反応がくるのか分からなかったが、リンは何故か感嘆の声を上げる。
一度口に出したら、感情が溢れ出し、止められなくなって捲くし立てるように千尋は語り始める。
「だってね、ハク・・・すっごく意地悪なんだよ!私がっ!・・・私が・・・・っ、ハクのこと・・・・好きだって分かってて・・それで、ハクがどんなことしたら私が赤くなるのか分かってて、わざと意地悪な事をしてくるんだよ!・・・好きだ・・・とか・・・・私なんか心臓ばくばくしてちっとも言えないのに、簡単に口にして・・・・・・・私が恥ずかしくって言えないで俯くと、すっごく嬉しそうに笑うんだよ!すっごく悔しくって・・・・」
内容を語るにも恥じらい、しかし語らずにはいられないのか、頬を紅潮させ、千尋はリンに詰め寄り、時に恥じらい時に怒りを見せながら涙を溜めて訴える。
リンはというと、そんな彼女を見て。
・・・・・そりゃ、たまらんわな。
などと、ばかっぷるぶりを発揮する話の内容はともかく、千尋のくるくると良く変わる表情を見つめながら、ハクに同情する。
これだけ素直に感情が表情に出れば、言葉で伝えられなくとも自分が想われているのだと確認する事ができるし、自分のために向けられるものだと思うのだと嬉しいだろう。
もっとこんな表情をさせたくて・・・・苛めてしまうのも分かる気がする。
などと、リンは考えてしまう。
「んで、今日はハクが来ねーんだな」
「・・・・・うん」
ハクに『大嫌い』と言ったのだ。今日はハクが自分を迎えに来る事はないだろう。
自業自得だ。
そんなことは分かっている。
しかし本当に腹が立ったのだ。
本当に嫌いになったなんてことは絶対に無い。
ただ悔しかったから。何かを言わずにはいられなかったのだ。
私はこんなにも悔しいのだぞ。と。
「苛められたんだよな。だったら怒って当然だよな。・・・の割りに、どうして怒ったお前の方が暗い顔してんだよ」
リンは俯く千尋を見つめ、苦笑する。
千尋はリンを見上げ、彼女自身首を傾げる。
どうしてなのだろう。
意地悪をされたのだ。
怒って当然のこと。
けれど、怒りよりも心を占めるのは罪悪感。
別れ際、悲しそうな目をしてハクは千尋を見つめていた。
本当にそれが辛くて。
ハクのことを本当に傷つけているのだと感じて。
それよりも。
ハクに嘘をついたことが心に刺さる。
「ハクに大嫌いって言ったの・・・そんなことないのに。そんなこと少しも思ってないのに・・・」
ハクの前ではいつも素直でいられた。
我儘を言ったり、喜んだり、泣いたり。
自分でもびっくりするくらい、素直でいれたのだ。
なのに、今の自分はハクに嘘をついた自分がとても惨めでならない。
怒りに任せて不用意に、少しも思っていないことを口にした自分が許せない。
ハクを傷つけた自分がとても嫌な生き物に思える。
沈んでいる千尋を見つめ、何処までも沈んでいく彼女を見ていられず、リンは口を開く。
本当は嫌なむっつり上司を喜ばす事なんてしたくはないんだけれど。
「千。大嫌いってばっかり言ってると、本当になっちまうぞ。この世界には言霊ってあってな。言葉に魂が宿るんだ。ほんの些細な事を口にしただけでも本当になっちまう。本当にハクに嫌いと言ったままでいいのか?大嫌いなままでいいのか?気がついたら本当に大嫌いになっちまうぞ」
千尋は目を見開き、「本当に?」と不安げにリンを見つめる。
「本当。湯婆婆との契約の時だってそうだったろ」
初めて、自分がこの油屋に来た時の契約、そして、元の世界に戻るための条件。湯婆婆はどんなに狡賢くても、どんなに冷酷な言葉を言い放っても、約束・契約をたがえる事は無かった。口にする事、文字にする事全て。
それは全て、言霊の呪がかかっているから。
千尋は全身から血の気が引いていくのを感じる。
『大嫌い』と言ってしまった。
それが本当になってしまったら。
どくどくと動悸がし、無意識に胸を抑える。
『好き』の幸せの鼓動ではなく。
何処か虚ろでとても痛い。
ハクを好きではない自分。
恐い。
千尋がどんどん青ざめていくのを見て、リンはやりすぎたかと舌打ちする。そこまで脅えさせるつもりは無かったのだ。それほどまでにハクを好きでない自分に脅える千尋の姿に、ハクにある種の嫉妬を覚える部分もあったが。
嘘はついていない。
千尋はばっと立ち上がると、いてもたってもいられないくらい不安なのか、涙を浮かべながら、「ハクの所に行ってくる!」とリンに告げると、廊下を走っていってしまった。
思い立ったらすぐの人。
そう言えば、千ってそうだったよな。初めて会った時はどんくさくて、うじうじしている奴だったのに。
千尋の素早い行動力を呆然と見つめながら、そんな事をリンはぼんやりと考えた。