彼の3

ハクは千尋が去ってしまったその後も、何となく建物に戻る気がせず、二人の交わしたやりとりに関係無く無常に咲き誇る花がさやさやと揺れる小道に座り込み、ぼんやりと空を見上げる。
先程まで色鮮やかで、鮮明に焼き付けられて、見せられていた風景が、あっという間に色あせて、ただの空間の中の一部にしかすぎなくなる。
千尋がいたからこそ、彼の視界の中の景色が色づいていたのだろうということに気がつく。そしてそんな事実に苦笑した。
千尋がいなければ、彼にとって世界など意味の無いものなのだ。
彼女を彼の中に焼き付ける、目、鼻、耳さえも意味の無いものなのだ。
それほどまでに千尋が愛しいのだ。
もはやそれは狂っていると言われるかも知れない。
しかし、『千尋に狂っている』。そう言われる事に、喜びを感じてしまうほどに狂っているのだ。
ただ、それは彼の人には伝わらない。
どれだけ恋しくても、愛しくても、うまく伝わってくれないのだ。
ハクは心とは裏腹に穏やかに流れる雲を見上げて、溜息をつく。
己の感情を理解する事で、己の箍を制することが多少できるようになった。
自覚の無いものを抑えるよりも、自覚しているものを抑えるほうが、理解している分容易い。
心安いものだ。
千尋が愛しい。どんなに抑えようとも、見ぬふりをしようとも、それはもう止まらない。
愛しさを言葉に変え、動作に変え、伝える事をハクは知った。
いや、触れることで、千尋を愛しいという想いで己を満たしていたのだと、つい最近知った。
千尋もハクと同じ想いを持っている。
それを知ったからこそ、ハクは千尋に触れられる己を喜び、触れることを許してくれる千尋を慈しみ、二人でいられる事の幸せを感じるのだ。
知っていて、行動を起こすのは容易い。
己が触れれば、千尋の頬が紅色に染まる。
愛しい。
己が愛しいと告げれば、千尋は恥ずかしがるように、少しはにかんだ笑顔を見せる。
愛しい。
己が愛しいと言う事を形にして伝えるだけで、千尋は全てを受け止めてくれ、必ず自分を喜ばしてくれるような返事を返事を返してくれる。
愛しい。
愛しくて。己の想いを伝えたくて。
すこしでもこの焦がれる感情を伝えたくて。
千尋だけなのだと。千尋だけにしか、己をこんな風に変えてくれないのだと。
自分がどれほど幸せなのかを伝えたくて。
千尋が想いを伝えてくれるのが嬉しくて。
ハクだけを見て、ハクだけに焦がれる感情を持っていて。
ハクだけしか映っていないのだと。
彼女には己だけなのだと。
確認したくて。
確信したくて。
想いを伝えられる時のあの幸福感が忘れられなくて。
何度も。何度も。
強請ってしまうのだ。
一度菓子の甘さを知った子どもが、もう二度とその味を忘れる事ができず、強請る様に。
子どもじみた望み。
何よりもの幸福。
自分がこれほどまでに幸せだったのだから。
千尋も幸せなのだと勘違いしてしまったのだ。
「千尋・・・」
口にするだけで。
こんなにも。
恋しくて。
切ない。