斎藤は一時の幸せを噛み締めていた。
夜間の巡察が終わり、近藤に報告をした後いつもなら一眠りをするのだが、その日は妙に目が冴えてしまっていて寝付く事もできず、ならばと朝から一杯呑める茶屋を探して屯所を出た。
朝から酒が呑める店など早々無い、何処か一件くらい無いだろうかと大通りをふらふらと当てなく歩き、ちょうど局長の使いの帰りだったらしいセイと道端でばったりと出会った。
斉藤の話を聞いて、「兄上も好きですねぇ」と笑いながら彼の隣を歩き、「お付き合いします」と申し出た。
彼女曰く、使いの帰りに何処か茶屋で甘いものでも食べてきなさいと労われたらしい。
そこには単純にセイへの『使いへの労い』の他に意味が含んでいる事を、斎藤は気付いていたが指摘する事は無かった。
その事は既に屯所内の人間皆の周知の事実であったから。
何も言わず、酒も菓子も出してくれる茶屋を見つけると入り、互いに望むものを頼んで一息を吐いた。
「はぁ~このお菓子美味しいですねぇ」
幸福感がそのまま吐息と共にセイが言葉を零す。
「そうか。俺もこの酒は好みだな」
いつもこの幸せそうなセイの表情を、斎藤も胸の奥が温かくなり心地よい。
ささやかな幸せを噛み締める。
「兄上は本当にお酒好きなんですから」
「清三郎も一杯呑むか?」
「いいえ。流石にまだ昼にもなってませんし。斎藤先生お一人でお楽しみください」
そう言って笑うセイの表情はあどけない。
何も言わずに酒が無くなれば酌だけをしてくれる。
「――沖田さんは幸せ者だな。あと少しもすれば、家に帰ればあんたがこうやって労い、酌をしてくれるんだよな」
「……」
小さく囁けば、酒を注ぐセイの手が止まり、彼女の表情を覗くと何処か不安そうに瞳が揺れていた。
一体何があったのか斎藤は知らない。
彼がその日朝から黒谷へ報告へ赴き、夕方屯所へ戻って来た時には、全てが整っていた。
セイは如身選ではなく元から女子であったという真実が明かされ、彼女が総司に嫁す事が決まっていた。
何故突然そんな流れになってしまったのか、つい先日までセイはこのまま男として残してくれないかと言っていたはずだ、それに総司は独り身を貫くと言っていた筈だ、武士として置いておけないというのだったら斎藤にセイを早く嫁に貰ってくれとまで言っていた筈だ、それなのに何がどうしてそんな事になってしまったのか。
すぐさま総司に畳み掛けるように問い詰め……。
既に全てを諦めている表情を見せる近藤と土方に同情してしまった。
「神谷。本当に嫌だったら俺が兄として全てを撤回させるぞ。悠馬の友として兄代わりとしてそれくらいしてやる」
斎藤の言葉に、セイははっと顔を上げ、そして――口を開く。
「斎藤さんったら、私が神谷さんに独り占めされて寂しいからって、またそんな事言うんですから」
セイが答えるよりも先に明るい声がそれまでの何処か緊張感のあった空気を全て壊した。
そう。斎藤にとっては問い詰めても妄想しか口にしない壊れた総司がにこにこと目の前に座っていても、彼がセイを嫁と決めた日から全くもって近付く事すら出来なくなったセイ自身と会話を交わす事くらいが幸せとなってしまっていた。
あまりにもささやか過ぎる幸せ。
隣の男を連れずにセイと二人で呑みに行く事もあったはずなのに、幸せになれる基準が低くなっている。
「はい。神谷さん。あーん」
「自分で食べれますってばっ!」
目の前ではまるで総司が妻のように、わらび餅を取り分けてセイの口に運んでやっている。
「斎藤さん。大丈夫ですよ。神谷さんの兄代わりって事は私にとっての兄代わりですからね。これからもちゃんと頼りますから安心してください」
「頼るな!近寄るな!声もかけるな!」
「つれないなぁ。寂しがったと思ったら、今度は冷たく振舞うし」
「俺は神谷だけを誘ったはずなんだ。店に入るまでは神谷と二人だったはずなのに、何故通された部屋に入ったらあんたがいるんだ!」
「え?」
総司は不思議そうに首を傾げるが、斎藤にとっては明らかに不可解な出来事だった。
冒頭の通り、確かにセイは一人で近藤の使いに出ていて、その帰りに斎藤と鉢合わせた。そしてそこで斎藤は酒をセイは甘味を求めて茶屋に行こうと意気投合し、この店に入ったのだ。その流れの何処にも総司の存在も気配も微塵も感じられていない。
もし、仮に、セイの後を不審者の如く総司が追っていたとしても、いや、追っているという仮定はありえなかった。セイが使いをしている間、総司は土方の供で外出していたのだから。
鍛錬や巡察くらいでは何をどのようにしてかは分からないが総司はセイの追跡をするのも可能だろう。(実際過去に近藤が合間を見てセイに今回と同様に休息を与えたがすぐに居場所がばれた。)
しかし、土方の隣にいれば流石の総司も身動きを取る事が出来ないだろうし、何だかんだと言っても仕事を優先する武士であるから今回ばかりは総司と鉢合わせする事はないだろうと近藤も見越してセイに使いを出したのだ。そこまで配慮までしてセイに一人になれる時間を与えてやろうとする近藤の苦労にも涙をするが、そこまで労われる程彼はセイに同情をしていた。
「神谷さんも、幾ら兄代わりと言えども、斎藤さんは本当に血の繋がったお兄さんではないんだから、私の事も考えてくださいよ」
「はいっ!?」
斎藤に対する返答は何処へ行った。というツッコミともういい毎度毎度起こるこういった状況で加減繰り返されているのだから慣れればいいのかも知れないが、何故今の流れで、セイは自分に話が振られるのか分からず、驚いて声を上げる。
「私は焼餅焼きですし、心配性なんです。貴女が男の人と二人で茶屋にいると思ったらもう気が気でなかったんですから。偶々私がここの茶屋で土方さんに今後の夫婦生活について相談していなかったらどうするんですか」
「…ふぅふ…せいかつ?」
聞きたくないのに。毎度聞いた後に後悔する事をもう何度も何度も身を持って染み付いているはずなのに、セイはつい、反芻してしまい、口に出してから後悔してしまう。
しかし、その言葉を待ってましたとでも言うように、総司は優しく微笑んだ。
「そうですよ。私だって家長になる自覚をもっと持たなくちゃって思っているんです。そりゃ神谷さんに私たちのお家で二人っきりでお酌してもらったら幸せで胸が熱くなりますし全身が熱くなるしきっと貴女に酔ってしまうんだろうなって自覚はあるんですけど、いつも私が貴女にめろめろじゃこれからややも出来て父親となった時に威厳も何も無いじゃないですか。だから相談していたんです」
「……」
聞かなきゃよかった。何故反芻したんだ自分。と心の中で頻りに自分を詰るセイ。
「貴女も妻になる事が不安で兄代わりの斎藤さんに相談したくなる事もあるでしょう。けどね、せめてちゃんと私にも斎藤さんと茶屋に行く事を言ってください。何処で何をしているのか不安になります。さっき土方さんに私たちが外出した後近藤先生が貴女に使いを頼んでいるはずだと聞きました。近藤先生からきっと使いの帰りに甘いもの食べて帰りなさいとでも言ってもらったのでしょう?」
「…はぁ」
総司の瞳を真っ直ぐ見つめながら、話半分に聞き流していると、彼の表情がふっと憂い変わる。
「これでも分かってるつもりですよ。土方さんにも言われたんです。神谷さんも偶には一人の時間が欲しいですよね。私も迂闊でした」
「先生…」
四六時中傍から離れない総司に壁々しているセイだったがついに土方に諭されて理解できたのかと感動してしまう。
「そうやって二人離れる時間を持つ事で再確認するんですよねぇ。私はいつもそうですよ。遠出の時も夜布団の中で思い出しますし、貴女が忙しくて一人で食事している時も、土方さんに貴女と二人の時間を邪魔されて一人でおやつを食べている時も、くずきり二十杯食べて厠で用を足している時も、貴女の事が頭から離れないんですよね。ほっとするって言うか、きゅうって胸が痛くなるって言うか、かって熱くなるというか、無性に身体を動かしたくなるというか」
「先生…?」
どうやら感動したのが間違いだった事にひしひしと気付き始めたセイは目の前で語る総司と身体的に距離を取る事は出来ないので、否、取らせてくれないので、既に適度に取っていた心の距離を更に引き離し始める。
「貴女が自分の傍にいないことに苦しくなるというか、泣きたくなるというか、早く触れて確認したくて堪らなくなるんですよ。神谷さんに触れて、ぎゅってして、怒られて、泣かれて、恥らわれて、喜ばれて、微笑まれて、ぎゅっとしてくれて、接吻してくれて、縋り付いてくれて、肌を重ねてくれて、一杯私を体全部で受け入れてくれて、『好きです。沖田先生』って言われて私の事忘れていない事確認してたくなるんです!」
「沖田先生っ!後半っ!私そんな事した覚えないですっ!」
わたわたと両手を翳し、否定するセイに、総司は無垢な瞳で見つめ返すと、首を傾げる。
「だっていつもそうじゃないですか」
「してません!してません!」
真っ赤になってセイは総司に反論をする。
「だっていつもこうやって…」
そう言って総司はセイの薄桃に染まった頬に手を触れると己の唇を寄せる。
「ところで、その話からすると土方副長がこの茶屋にいたはずなんだが、何処へ行った」
何処まで総司独壇場を空気のように存在を無かった事にされて、傍観しなきゃならんのだと額に青筋を浮かべながら斎藤は静かに怒りの篭った声で問いかける。
「帰りました」
斎藤の怒りの気配に少しも怯む様子なく、あっけらかんと言う総司に、またびしっと斎藤の額に青筋が増える。
「家長の話や夫婦の日々の営みの話をどうしたらいいんだろうと真剣に相談していたのに、『かっちゃん…俺にはもう限界だ。許してくれ』とか言って突然お金だけ置いて足早に帰っちゃったんですよねぇ。腹でも下したんでしょうか」
それだけで全てを察したセイは『副長すみません』と心の中で侘びを入れる。そして近藤と土方のセイへの配慮をひしひしと感じ、感謝の念を送る。
恐らくは総司が壊れてからの日頃のセイの状況に同情し、二人でセイが少しでも心安らかに過ごせる時間を作れるように画策してくれたのだろう。
「そうか…沖田総司!」
「はいっ!?」
突然声を大きく名を呼ぶ斎藤に、総司はびしっと背筋を正す。
「俺は神谷の亡き兄、祐馬の代わりとして、お前を神谷の夫として見定める!」
その言葉に、総司のすっと目を細める。
「どういうことです?」
「お前の事だ、まだ祐馬の墓に挨拶にも行っていないだろう!」
「っ!」
嘗て無いほどの衝撃を受け、総司は息を飲む。
「図星だな。神谷にはまだ場所も知らされてもいなのだろう。まだ伴侶としてそこまで神谷にも認められていないと言う事だ!それで夫だ夫婦だの小賢しい!」
「くっ…私とした事が…」
「祐馬の墓で、神谷の両親が眠る墓でしっかりと報告をした上で結縁するのが神谷に対する礼儀だろう!それもせずに、何が神谷を思っているだ!愛だの恋だの、全て浅いな!」
「私は本当に神谷さんをっ!」
総司は顔を上げ、必死に斎藤に訴えかけるが、それを斎藤は一蹴する。
「俺はあんたを認めん!俺が認めない限りは神谷との結縁は認めん!手を出す事も許さん!真に神谷を思い遣る相手でなければ祐馬は当然認めん!それくらい兄代わりだからと言わんでもわかるだろう!だが敢えて兄代わりとして言ってやる!神谷にあんたは相応しくない!」
総司がセイ一筋馬鹿になってから早数ヶ月これ程までに彼が打ちのめされた事があろうか、いや、ない(反語)と言うくらい、衝撃を受けた総司はその場でがくりと両手を突いて視線を落とす。
「…沖田…先生?」
壊れてからずっとにこにこセイにはいつも幸せそうな笑顔を見せ続けていた総司の豹変振りに、流石のセイも戸惑いを見せる。
彼はどんな時も笑顔だった。
セイと堂々と恋仲だと公言できるのが幸せだと笑った。
セイを女子扱いして甘やかしてやれるのがとても嬉しいのだと笑った。
セイを求める男として求めるままに触れられるのがとても心地よいのだと笑った。
どんな時でもセイを想えば、太陽のように微笑むセイが浮かび、そのセイを独り占めできるのだという幸せに満たされるのだと笑った。
セイと共にいられると想えば幸せな未来を描ける自分に罪悪感もなく浸れる幸福を与えてくれてありがとうと笑った。
そんな総司がまるで己自身の全てに絶望するように虚脱状態になっている。
今まで総司をセイの家族の墓へ連れて行かなかったのは単に機会がなかっただけなのだが。
総司が結縁を言い出してからも連れて行かなかったのは、総司と結縁が嫌とかと言う話ではなく、セイ自身が結縁をするのだと言う自覚がまだはっきりとなかったからなのだが。
報告をするものだとセイ自身、今斎藤に言われて初めて気付いたくらいだったのだが。
「……神谷さん。私は神谷さんのご家族とご挨拶するのに値しない人間だったんでしょうか?」
「いえ…あの…」
「そう言えばそうなんです。新選組に貴女が入ってきてから一度もご挨拶していませんでした。そうですよね。師範として挨拶もしていませんでした。貴女が女子だって知って、貴女を新選組に残すと決めた時に私から一度きちんとご挨拶するべきでした」
「私はそんなこと望んでいなかったのでっ!」
「そうですよね。貴女は望んでいないかも知れません。武士同士としてはそれが自然かもしれません。だとしても、貴女を嫁にと望む時点で一度私からご挨拶をするべきでした」
その言葉に、セイは戸惑う。
「私は…貴女に相応しくないのかもしれません」
声質は最早地を這い、絶望に真っ直ぐに落ちていくように総司の身体全身から力が抜け落ちていく。
何度も再確認するが、こんな風に陥る事は、総司がセイ一筋に壊れてから一度も無かった。
どうすればいいのだろうか。
そう思う一方で、セイの中には彼を救い出す言葉は既に浮かんでいる。
しかし、それは、危険な言葉である事も分かっている。
落ち込む総司から少しだけ視線を横に向けると、すっきりした表情を見せている斎藤はセイが己に戸惑いの視線を向ける理由は既に分かっているらしく首を横に振った。
このままにしておけば、夫婦だだ結縁だのと言う話は立ち消え、もしかしたら元の総司に戻ってくれるかも知れない。
総司が壊れてからこんなにも落ち込む姿を見なかった。だからこそ、一度ここで冷静に戻ってくれるのならそれも良いのかも知れない。
しかし一方で、もう、こんなにも。
こんなにも総司がセイを求める事は無くなってしまうかも知れない。
それは――。
「こっ。…っこれからご挨拶に行けばいいじゃないですかっ!」
この言葉は自爆。と思いつつも、目の前で好いた男が落ち込んでいれば励まさないという選択は出てこないこちらも何だかんだ言っても恋する女子、セイ。
セイの言葉に総司は顔を上げ、一気に頬を赤らめ、嬉しそうに笑う。
いつもの愛しさのままにセイに睦言を囁く総司の笑顔、それ以上に愛しさ満面の笑顔がセイの心を奪う。
セイを愛しく思う故の幸せが溢れ出す笑顔に、真正面から受け止めた当人の体温は一気に上がり、頭くらくらだ。
また鼻血が出そうになる。
しかし――彼のセイを想う故に見せるこういった表情や行動に、何処かやみつきになり始めている己を感じたセイは、自分もそろそろ壊れた総司に侵食されているなと何処か諦めに似たそれでいて確かに幸福感を感じていた。
総司はすっと立ち上がると、セイの手を引く。
「ではこれから行きましょう!」
「これからですかっ!?」
外を見れば、いや、まだ確かに昼を過ぎたくらいだから、これから行っても門限には戻れるだろう。
総司は既にセイの疑問は耳に入らない様子でうきうきしながら言葉を続ける。
「それと、ご両親にご挨拶をするんだったら、神谷さんはちゃんと本来の女子姿に戻って行きましょうね」
「えっでも…」
未だ武士の格好でいるセイは、まだ完全に女子に戻る事に今までの彼女に武士である事を諭してきた総司の態度もあり、戸惑いを隠せない。
戸惑うセイに、総司は屈んで彼女の視線に合わせると、愚図る子どもを宥めるのと同じ様に少し困ったように囁いた。
「父上と母上と兄上に私が怒られちゃいますよぅ。セイをきちんと女子として娶れって」
「……」
「それにね。――私が貴女の女子姿を見たいんです。私の我侭も聞いてくれませんか」
総司はお願いする時とても優しい口調で語りかけてきて、セイはいつもずるいと思う。そんな風彼女の想いを思い遣りつつ許可を求めるように請われると、セイはまた絆されてしまう。
「はい…」
まだ迷いが言葉尻に残りつつも、少しだけ嬉しい気持ちも混じり頬を染めながらセイは小さく頷いた。
そんな少し宥められた子どものような仕草を見せるセイの様子に総司は頬を緩めながら、顔を上げると、斎藤ににっこりと満面の笑みで声をかける。
「兄代わりの斎藤さんも一緒に来ますか?」
「行かんっ!」
絶対この男、分かってやっている。
斎藤は苛立ちと共に言葉を吐き捨てた。
総司がセイとの結縁を取り付けてからずっと悶々としていた鬱憤を晴らす事が出来たと思ったのに。
斎藤の想いを知りながら、己は独り身を貫くと宣言していた男が突然掌を返して、人の計画を台無しにしてくれた事に一糸報いたと思ったのに。
セイと二人きりで久し振りに優しい時を過ごせると思っていたのに。総司の奇行は聞いていたからまだ付け入る隙があればセイを奪おうと思っていたのに。
結局は何だかんだ言って最後には必ず、セイは総司も選ぶのだ。
「ふんっ!」
斎藤はセイに注がれた酒を一気に飲み干した。
いいのだ。セイが幸せならば。
それで。
兄代わりとして。
なぁ。祐馬。
2021.06.21