――セイには何が起こったのか分からなかった。
「おはようございます。神谷さん」
いつものように西本願寺一番隊隊士部屋で出口に一番近い角で二人並んで眠るセイと総司。
セイは隊士の中で若輩者故に末席を選んで。総司は組長でありながら当初は何も考えずに。今は婚約者である彼女の隣は自分以外ありえないと陣取って。
そうやって夜を超え、目覚めた朝。
セイが起き上がると、今までに無いくらい眩しい笑顔で総司は彼女に挨拶をした。
女子に免疫が無いとは言え、本人無自覚のタラシなのは、一番隊公認だ。
爽やかな容姿に、健康的な体躯、丁寧な言葉遣いに、柔らかな物腰。
一番隊組長。笑顔で人を殺すなんて噂さえ立てられなければ、彼自身を知れば、女子はめろめろだ。とセイは思っている。
彼自身に自覚は無いがそうやって恋に落ち、そして気付かれぬまま身を引いた女子を、ずっと彼の間近にいたセイは何人も知っている。
彼女自身もその一人のはずだった。
寧ろ恋心を隠し、武士として彼の傍で、いざという時は彼の身代わりになれるよう新選組に身を置き、研鑽してきた。
――突然、螺子の外れ…壊れ…心の変化を見せた総司が、セイと結縁すると決めなければ。
兎にも角にも、岡惚れした彼の朝一番の眩しい笑顔と、優しい彼女の名を呼ぶ声音に、セイは卒倒…まではいかなくとも、鼻血を吹きそうになり、思わず鼻を押さえた。
「どうしたんですかっ!?神谷さん!」
総司は慌てて身を寄せると、セイの鼻を押さえる手を握る。
「…何でもありません…お、はようございます…沖田せんせい…」
「何でも無いはず無いでしょうっ!鼻血ですかっ!?暑いのに布団を被って寝たからのぼせたんですかっ!?」
「…いい…です…大丈夫…ですからっ!」
真剣な眼差しで覗き込む総司に、疚しさ満点なセイは目を合わす事が出来ず、思わず逸らしてしまう。
「良くないですっ!誰かっ!」
後ろを振り返り、起き出した隊士たちに総司が声をかける。
「っ!大丈夫ですってばっ!」
居た堪れなくなって、セイは総司の手を振り解き、立ち上がると、勢い良く廊下を駆けて行った。
どうしようもなくて、逃げ込んだのは厠。
鍵をかけ、ずるずるとその場にしゃがみ込むと鼻を摘んだままのぼせた頭を懸命に冷ます。
「神谷さん…」
戸の向こうから聞こえた総司の声にどきりとセイの心臓が大きくなり、冷ましていたはずの頭にまた血が昇り出す。
「鼻血止まりましたか?懐紙持って来ましたから、これで抑えておきなさい。後、井戸で濡らした手拭も持ってきましたからもし顔が汚れたならこれで…」
「あっ…ありがとうございますっ!整えたら行きますからっ!沖田先生は先に朝餉に行っていてください!」
「そんな訳にはいかないでしょう。私の方が心配で朝餉も喉を通りませんよ。鼻血止まったなら、ほら、出てきなさい」
そんな事を言われれば、またへにゃりとセイの心が緩んでしまう。
このまま出なければ総司もきっと戸の外から出ないだろうと、己の醜態を見せるのに諦めのついたセイは戸の鍵を開け、そろりと顔を覗かせる。
すると、満面の笑みを浮かべ、その後労わるように総司は微笑むと、左手でセイの頬に触れた。
「良かった。鼻血は止まったようですね。ほら、顔を上げて」
そう言うと、右手に持っていた手拭で、優しく、彼女の肌が傷付かないようにと、加減が分からないのだろう時に強く、時に弱く、それでも懸命に顔を拭った。
その心遣いがセイの心に優しく響く。
拭い終わって、されるがまま目を瞑っていたセイは暫しそのまま制止し、ぎゅっと反射的に身構えた。
しかし、手拭が離れると、そのまま頬を支えていた総司の左手も離れ、代わりにそっと前髪を撫でられた。
「どうしたんですか?終わりましたよ。さぁ、朝餉を一緒に食べましょう」
ゆっくりと瞼を開くと、総司が困ったように笑みを浮かべ、そして慈しむような眼差しを向けていた。
そして、セイの手を取ると、彼女を労わるようにゆっくりと歩き出す。
(あれ?)
セイはぽっかりと心に穴が開いた気がした。
いつもなら接吻が降ってくるはずなのに。
そう思って、――今度はまた頭に血が上って顔が真っ赤になるのを感じた。
(期待していないよっ!?別に期待していないけどっ!いつもなら、そういつもの先生ならそのまま接吻の嵐が来るはずなのにっ!だから身構えてただけで、物足りなくなんか少しも感じてないよっ!)
己の思い至った思考にセイは激しく首を横に振って飛ばす。
そうして、もう一つ気付いた。
今日は少しも浴衣が着崩れていない。
いつもなら、セイが苦しそうだからとか、セイが寝言で呟いたとか、夢の中でセイが囁いただとか、手を伸ばしてきただとか、何かにつけ理由をつけ夜中中も触れたがっていたのに、少しもそんな様子を見せなかった。
厠前だからとか、人前だからとかそんな事少しも関係無くいつでも何処でもしたい放題だったのに。
(あれ?)
けれど、決してセイへの愛情が薄らいだという訳ではない。
それだけは確信できる。
「神谷さん。今日は魚ですから小骨を取っておきました。貴女魚食べるの下手ですからねぇ。こうやって解せばちゃんと綺麗に食べれるのに」
当たり前のように一番隊で固まって朝餉を取る。当たり前のように抵抗するセイから逃れ彼女と己の膳を持ってきた総司は、己の膳の隣にちょこんと置くと、皿に乗せられていた魚を解し始める。
「私だってそれくらいできますっ!」
「今のはただの言い訳ですよ。私が貴女にしてあげたかったんです。ほら。あーん」
むきになってセイが反論すると、総司はへらりと笑って、己の箸に解した魚を乗せると彼女の口元へ運ぶ。
少しの邪気の無い好意だけの行動に、セイは恥しくなってふいっと顔を逸らす。
「一人で食べれますってば」
「じゃあ一口だけ、食べてくださいよ。そしたら満足しますから」
「……」
そんな事を言われたら堪らない。
セイは真っ赤になったまま、すぐさま振り向くのも悔しくて、渋々と顔を向けるふりをしてゆっくりと総司を見ると、小さな口を開ける。
そこに子どもにご飯を与えるように丁寧な仕草で総司が箸を運ぶと、セイは口に入ったものを咀嚼し、こくりと飲み込む。
「美味しい?」
「……美味しいです」
そろりとセイは総司の表情を覗き見ると、とても幸せそうに笑っていた。
だから、彼女もつられて笑みを浮かべてしまう。
何だかとても幸せだった。
周りに見られているのも気にならないほどに、照れ笑いに頬が熱くなった。
しかし、それも巡察の時は別だ。
「神谷さんは後方で待機してくださいっ!」
「嫌ですっ!沖田先生が前に出てどうするんですかっ!」
いつものように巡察に出ると、不貞浪士にばったりと出会い、戦闘が始まった。
「相田さんは右の通路から周ってください!挟み撃ちにします!」
「はいっ!」
総司の指示にすぐさま相田が二、三人を連れて、細い通路を総司たちと反対に向かって駆けて行く。
セイもそれに続こうとしたが、後ろ襟を引かれ、その場に留めさせられた。
「貴女は勝手に動かない!」
「けどっ!」
「私の背を守らないんですかっ!」
「っ!」
こちらに向かって刀を振り下ろしてくる浪士と向き合い、セイに背を向けながら、そんな言葉を投げつけてくる総司に、彼女を息を飲む。
それを言われたら、セイには動きようが無い。
何の為に、誰の為に、新選組にいるのかと言われれば、唯々目の前の誰よりもかけがえの無い人の為にいるのだから。
セイは抜いた大刀の手抜き緒を手首にかけると、総司の後ろで構える。
浪士は数こそ多かったがそれ程の腕の持ち主もおらず、二人の掠り傷程度の負傷者を出したが、相手を殺す事も無く捕縛した。
打ち合いが完全に終わり、捕縛した浪士を奉行所へ突き出す段取りも終えると、総司はすぐさまセイの傍に駆け寄った。
先程の反論した事を起こられるだろうか。それともまたいつものように傍目も気にせず抱き締められるだろうか。とセイは首を竦めたが、いつまで経ってもどちらも行動も起こらず、ただふわりと総司の気配が間近に寄った事だけを感じた。
「神谷さん」
優しく名を呼ばれ、セイはそろりと視線を上げる。
「神谷さんは怪我ありませんか?」
柔らかな視線が彼女を捕らえる。
セイはただふるふると首を横に振った。
「助かりました。私の背を守ってくれてありがとう」
ぶわりと大粒の涙が無数に零れた。
そんな事一度も言われた事無かったのに。
「もぅ。泣き虫さんですねぇ」
困ったような苦笑の声が耳に入り込む。
今度こそ接吻されるだろうか。
そう身構えると、そっと優しく抱き締められた。
今までに無いくらい、優しく、柔らかく。
いつもの想いの丈をそのままぶつける様な強い抱擁ではなく、何処までもセイを大切に優しく労わるような抱き締め方。
だからつい、セイも素直に甘えてしまい、総司の背に手を回し、ぎゅっと抱きついた。
「甘えたさんですねぇ」
少しも困っていない照れたような声さえ、セイに甘く優しく響く。
「…沖田先生…大好きですぅ…」
総司の胸に顔を押し付け、くぐもった声で、恥しさを誤魔化すように小さな声でそうセイは囁いた。
「もうっ…もうねっ!その時の神谷さんったら可愛いったらないったらないんですようっ!」
その夜、土方の部屋から大きな声が響く。
ばんばんと畳を叩きながら、いかにセイが可愛かったかを語る目の前には土方。
でれでっれの顔の男の前で、無表情を保つ兄貴分。
「本当にもうっ!どれだけ可愛かったか土方さんにも見せたかったですよっ!でも見せませんけどねー絶対見せませんけどねー。あーんな可愛い顔の神谷さんを見て土方さんが惚れてしまったら大変ですからねっ!」
「…俺が惚れたら神谷が乗り換えると」
「そんな訳ないでしょうっ!神谷さんが私以外を好きになるなんて絶対にありえませんっ!神谷さんは私だけって誓ってるんですからっ!」
「…何処からその自信が出てくるんだ」
「そんなの神谷さんを見てたら分かるでしょうっ!」
「…」
土方は呆れてそれ以上反論を口に出すのにも嫌気がした。
それを納得と捉えたのか、総司は満足そうな表情を浮かべると、話を続けた。
「けど、土方さんに言われた通り、自分の本音を抑えに抑えに抑えて、出来るだけ接吻も触れるのも抑えに抑えに抑えて、好きです愛してますって言葉も抑えに抑えに抑えて、野暮天だった頃の私だったら言うだろう態度と台詞とそれにちょこっといつも思ってるけど中々言えなくてでも私が近藤先生や土方さんに言われたら嬉しいだろうなぁと思ってる台詞を言葉にしたらあんなに喜んでくれるなんて…しかもしかも…」
総司は思い出し笑いに顔を真っ赤にして振るえる。
「…婚約決めてからも一度も言われなかった…好きです……なんて聞けるなんて―!!好きですよっ!神谷さんが好きですって言ってくれたんですよっ!?しかもしかも耳まで真っ赤にして、ちょっと震えて、でもぎゅっと抱きついてきてきてくれて好きですって!!あー可愛い過ぎます―!!」
「今の今まで好きですと言われなかったのもどうかと思うが」
そう土方が呟くと、総司はがばりと顔を上げ、噛み付いた。
「その機会を奪ったのは土方さんじゃないですかっ!伽の間だったらきっともっと一杯言ってくれますよ!」
「それを禁止したのは近藤さんだ。俺じゃねぇ」
「いーえ!近藤先生は悪くありません!土方さんが変な事言うから悪いんです!」
「俺たちの会話聞いてもいねーだろ」
「聞いてなくても分かるんですぅっ!」
決め付けも甚だしいが、恐らく何と反論しようとも近藤が悪いという結果には決してならないだろうという予測は土方にはついた。
理不尽だ。
「でもねぇ。神谷さんから甘えてくれるのは嬉しいんですけど、私いつまでこうしていればいいんでしょう…。正直息が詰まりますよ。神谷さんに好きです愛してますって言えないし、触れられないし、溜まるんですけどー」
「一生だな」
理不尽故に、土方は少し意地悪を思いつく。
「無理ですようっ!」
「考えても見ろ。俺から見ても神谷はお前が神谷に惚れる前からお前に惚れていた」
その言葉にでれんと総司の顔が緩んで蹴り飛ばしたくなるが、土方は抑える。
「女を寄せ付けねぇ、想われても気付かねぇ。野暮天なお前に惚れてたんだ。それが突然ぶっ壊れたように惚れたはれたで自分に襲い掛かってみろ、びびって逃げるだろう。その結果が最近のお前に対する神谷の冷たい態度だ」
それまでお神酒徳利よろしくいつでも一緒、セイが総司の金魚の糞のように、親鳥に懐く雛のように彼の後を懸命に追い続けていたのは彼女が新選組に入ってからよく知っている。
だからこそ、何のきっかけがあったのか分からないが突然セイの後を追うようになった総司に驚いたが、追われた当人はもっと驚いて逃げ惑うようになっていまった。
そんな彼女に十分同情できる程に総司は神谷馬鹿になっていた。
セイの気持ちは分からないでもない。
そしてそんな今まで自分を追ってきたセイが自分から逃げるようになった事に対して戸惑ったのは壊れてしまった総司も然りだった。自分が原因だとは露とも気付かず。
それで土方にどうしたら、セイからももっと(惚れられているという根拠の無い自負は揺らがない)好意を見せてくれるかと相談をされたのだ。
それなら簡単だった。
壊れる前の総司に戻ればいい。そこに少しの恋愛感情を乗せればいい。
下ネタは女子は引くから止めろ。と念を押して。
それをここ数日総司にやらせた結果は案の定だ。
きっとセイもほっとしていることだろうし、土方も総司の神谷馬鹿っぷりを見ずにほっとしてる。きっと隊内の誰もがほっとしているだろう。
だから、土方は何処まで持つかは分からないがこのまま総司が落ち着いてくれればと願いながら、正論で総司を捻じ伏せた。
「私…そんなに持ちませんよぉ。今だって凄く疲れるんですからぁ」
「だったら、また神谷につれなくされるんだな」
「ぐぅぅぅ」
一生は無理だとしても、あと数日くらいは持ってくれ。
と、願った土方の期待はあっさりと翌日には裏切られた。
「きゃー!!」
新選組屯所では本来ありえない声質の高い悲鳴が屯所内に響き渡る。
「沖田先生のばかっ!ばかっ!ばかぁっ!」
「その言葉を今に好きっ!に変えてみせますから覚悟してくださいっ!一杯一杯言わせますからねっ!昼も夜もっ!」
「ばかぁっ!ばかぁ――!」
涙声交じりの悲鳴が段々と何処か遠くへ消えていった――。
2021.06.21