風桜~かぜはな~2-20

ずっと気になっていたセイの首筋に残る赤い痕。
最初は何か虫にでも刺されたのかと思ったが、次第にそれが口吸いの痕だと気が付き始めた。
セイを街中で見つける前に、富永家を訪れた際に、今回の誤解を説明し殴られた後、父子二人で最近彼女の様子がおかしいのだと心配していた。
総司との事で思い悩んでいる様子ではなく、別の事で悩んでいるようだった。
あの日、斎藤が何かしたのか?と思ったが、彼は何もしていないと答えるだけで、それ以上何も答えず、セイも何もされていないと答え、二人ともそれ以上言う事も追求する事も出来なかった。
斎藤がセイに抱く恋情を理解していたし、セイも恋情かは別として好意を持っていたから、この二人ならいい夫婦になるだろうとも思って二人きりにした。しかし、父子の思いとは別にその日以来二人は一切会う事も、屯所での定期診察の時でさえも会う事は無くなっていた。
きっと家族は気付かなかったのだろう。と総司は思う。
セイは懸命に隠していたから。
実際、総司もセイと久し振りに会えた嬉しさから頻りに彼女の表情を伺っていなかったら気付いていなかった。
何かの折につけ、彼女は襟元を気にし、そして正すのだ。
総司が振り返る度に、ぎくりと身を震わせて、いかにも何かを隠すように。
そして今まで全く怯えることなど無かったのに、初めて総司を男として警戒するように距離を置いていた。
手を繋ぐ。
その事一つでさえも怯えた。
触れる事。
その事自体に。
男に対しての警戒。口吸いの痕。
土方が言うように、もう既に斎藤と身体を重ねたのだろうか。
それ故に彼に操立てしているのだろうか。
そう思った瞬間、絶望感が総司を容赦なく襲った。
この頬も、この首筋も、この肌も…唯一触れ合った唇さえも。
爪先まで全て斎藤に染められてしまったのか。
斎藤に肌を許し、甘く啼いて、貫かれる事を求めたのだろうか。
想像したくないと思っても、幾度も頭の中でその光景が勝手に浮かんでは、総司を慟哭とどうしようもない荒れ狂った怒りと悋気が襲った。
それでも、己にとってセイが唯一の人だから。
彼女が斎藤を望むのならそれでもいい。
彼女の幸せを願おう。
斎藤を殺してしまいそうなこの衝動を抑えて。
しかし。いや。
抑えようと思っていたが、彼女と久し振りに二人の時を過ごし、彼女が傍にいる事での己の心の充足感を再び味わえば、それは無理だった。
本来全ては自分のものだったはずなのだ。
それを総司を信じず、些細な誤解で斎藤に身を委ねたのならセイも許せない。
嫌がったとしても、彼女を斎藤から攫い、己だけにもう一度染め直す。
彼女の全ては自分のものだ。 そう思って、彼女の誤解を解く為に色んな店を巡り、屋敷を訪れるのは最後にし、貸家には同行させなかった。
そして。二人きりの空間で初めて、今日ずっと総司を絶望へ導いた痕に触れた。
触れた後から、あっただろう情事の激しさが浮かんで、発狂しそうになる。
「私はまだ、貴女を抱きしめる資格がありますか?」
そんな問いは無意味だった。
それでも聞いたのは、本当にセイが愛しくて、誰よりも大切だったから。
彼女の気持ちが己にまだ少しでもあるのなら。
傷は小さい方がいい。
セイは目を見開き、そして、顔を真っ赤にして、また涙を零し始めた。
「セイちゃん…。それじゃ分かりません…」
既に体の奥でうずく黒い衝動を抑えるのは限界だ。
総司のそんな葛藤を知らず、セイは彼の手を取ると、己の頬に当て、擦り寄った。
「…沖田先生なら…怖くない…」
無意識に己に自問自答するように呟くセイに、総司は眉間に皺を寄せる。
「…斎藤先生…怖かった…別人みたいで…」
ぽろぽろと零れる涙が、総司の指を伝う。
呟くセイの表情が本当に安心しきったように頬を緩め、彼女の己の掌に擦り寄る仕草にそれまで抱いていた黒い感情が霧散され、上がり続けていた悋気なのか、欲情なのか分からない熱が急激に下っていくのを感じた。
総司に対して警戒しているのではない。
斎藤に操を立てているのではない。
何があったのかは分からないが、彼女は、純粋に、男と言う生き物に怯えているのだ。
そう感じた総司は、己の中にあった、雄の牙を取り払った。