想いは桜のよう。
風は流れる時のよう。
記憶は日差しのよう。
薄紅色の花弁がひらりひらりと舞う。
風に乗って空高く昇り、柔らかな羽のようにふわりふわりと地上に舞い降りる。
地上を埋め尽くす桜の花弁。
柔らかな太陽の日差しが世界を白く、薄紅色の世界が溶けていく。
清は公園のベンチに座り、穏やかで優しい時間をまどろんでいた。
「神谷さん!」
そう、あの日、声を掛けられたのがきっかけ。
いつか会えるだろうか。
ふとした時に幕末へ心が還りながら、そして現実の今を彼女は生まれてからずっと過ごしていた。
出会ったその日。
それは過去と今が重なった瞬間だった。
「神谷さんですよね!神谷さんじゃないんですかっ!?神谷さんですよね!」
大学の食堂で、友人と初めて見る学食を選んでいた所、突然背後から抱き締められた。
大きくて力強いものにすっぽりと包まれ、締め付けられる、その痛みには覚えがあった。
声に乗せられる感情に、呼ばれる名に、清の内側でそれまで何処か白昼夢のようにゆらゆらとたゆたっていた感情が記憶が一気に開放されるのを感じ、全身が震えた。
「…っ先生っ…痛いです…」
「神谷さんだ!神谷さんに会えたっ!」
「…っ痛いですってばっ!沖田先生っ!」
ごふっ!
痛みから逃れようと無意識に構えていた右腕は見事に総司の鳩尾に入り、彼は手を離すと同時にその場に蹲る事となった。
けれど彼は顔を上げ、彼女を見上げるとにっこりと笑う。
「沖田先生…て事は、神谷さんも覚えているんですね?」
あの時の嬉しそうな表情は今でも忘れない。
幕末を生きたあの日の二人を、もう一度繰り返す事が出来るのかも知れない。
そう思えた瞬間。
ひらり。ふわり。
桜の花弁が風に舞う。
清は己のお腹にそっと手を当て、そして、微笑む。
薬指に指輪の嵌った左の掌でそっと慈しむ様に撫でる。
優しい風が吹き込み、柔らかな薄紅色の日差しが彼女を包み込む。
「腐れ縁ですから!」
そう言った時、彼は本当に嬉しそうに笑ってくれた。
彼も自分を覚えてくれていた事、一緒にいる事を生まれ変わっても望んでくれていたのだと伝わるその表情は、ズルイと思った。
いつだって甘味馬鹿で、野暮天で、幕末の頃から何一つ変わらない。
生まれ変わったんだから少しは進化していてもいいだろうと思うのに、少しも変わらない彼にほっとして、少し寂しかった。
また片思いを続けるんだ、と。
それでも彼の傍にいられるなら、彼が腐れ縁として自分が傍にいる事を望んでくれるなら、それだけで幸せだと思った。
私も大概進化していない。
そう思って、笑って泣いた。
けれど、幕末の時と同じままでいいと傍にいた自分の方が、生まれ変わったのに少しも生まれ変わった自分を生きようとしていなかったのかも知れない。
「腐れ縁はもういいんです」
だからあの時の衝撃は忘れない。
柔らかな光の眩しさに、清は眩暈を感じて、瞼を閉じた。
そこに見えるのは袴姿の自分。
二本を腰に差し、いつだって総司の背を追いかけ続け、彼を守りたいと願い続けたあの日の自分。
それがゆらゆらとぼやけていく。
はっとして清は目を見開き、そして、少し早くなった呼吸を整えた後、もう一度瞳を閉じた。
ひらり、ふわり。
桜の花弁が舞い降りる。
頬に掌にそっと降りてくる感触が、清の心を擽る。
それまで二つの世界を生き、鮮明に記憶している自分が、ある時を境に揺らぐようになった。
清の中に新たな命が宿ってから、ゆるゆると気付き始めた。
今生きる現実で、ひとつふたつと総司と思い出を重ねていくと共に、
ひとつふたつと、幕末を生きた思い出がぼんやりとおぼろげになっていく。
決して掻き消えて無くなるのでは無く、その時の想いや記憶が今の自分の想いや記憶に溶け込んでいく感覚。
それに気付いた時、総司と幕末の思い出話をした時に思い出せなくなっていた事を気付いた時、清は慄いた。
過去を彼と共有できなくなる自分に脅えた。
すぐには言えなかった。
彼に気付かれないように幾度も取り繕った。
それでも何時かは綻びが出る。
「ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!」
ある時、総司に「もしかして」と問われた時に、清は何度も何度も謝り続けた。
取り乱す彼女に、総司は慌てて彼女を落ち着くよう宥めた。
「どうして謝るんですか。清」
「…だって……」
泣きじゃくる清の頬に額に口付けをするが、清は逃れようとする。
「記憶を無くした私はこんな事してもらう資格なんて無いんです!」
逃れる彼女の腕を押さえ、総司は口付けを続ける。
「記憶が無くなったって私が貴方を大切な気持ちは変わりませんよ」
「折角の大切な思い出なのにっ!二人だけが共有できる思い出なのにっ!」
「…お願いだから清…それ以上取り乱さないでください…お母さんがそんなに動揺していたら赤ちゃんに悪いです…」
「だって…」
零れる涙を抑える事は出来ないが、それでも己の中の命の事を思い出し、我に返ると、清は総司を不安そうに見上げた。
総司は労わる様な眼差しで清を見つめ、そして優しく抱き締めた。
「ねぇ。私、もう『腐れ縁』はいい。って言いましたよね」
「……はい」
「…腐れ縁という言葉に囚われなくても貴方がいつだって傍にいてくれるって、貴方が教えてくれたから、私ももういいと思えるようになったんですよ…」
「……」
「清ももういいと思いませんか?私は貴方が神谷清三郎でなくても貴方を愛してますよ」
「……」
「子どもの頃の記憶だっていつかは思い出になるんです。思い出せない事思い出せる事あるでしょう?あの頃の記憶も同じですよ。今まで全部鮮明に覚えていた方が変だったんです。思い出せる事思い出せない事があったっていい、あの時感じた想いが今なのか昔の事だったのか分からなくなっていたっていいんです。段々と思い出に変わっていっただけです。だって記憶があっても無くても貴方は貴方ですもん」
「…総司さんは…あの頃の記憶が無くなっていったら寂しくないんですか?あの時の気持ちが薄れていったら…」
局長への敬慕も土方との思い出も、新選組で懸命に生きた事も、全てが夢のように溶けて消えてしまったら。そう問う清に、総司は苦笑する。
「…寂しくないですよ…だって貴方が寂しさを埋めてくれたから…。近藤先生も土方さんも私にとって今も大切な人です。もし二人の事を忘れてしまっても、きっとその気持ちだけは変わりませんから。私は未だ鮮明に覚えているから推測でしかないけれど、そうじゃありませんか?」
問われて、清は己の心を省みる。
あの日生きた記憶は不鮮明になりつつあるけれど、あの日のいつの想いかは分からないけれど、それでも確実あるあの日の想いは何処からとも無く溢れ出す自分の心に、無意識にあの日を想い流れる涙に、清は驚いた。
何も忘れていない。
記憶は出来事は不鮮明になっていても。
今の記憶と混ざってしまっていても。
全ては己の中に溶け込んでちゃんとそこにある。
「ほら」
「そういう事なんですよ。きっと生まれ変わるって」
優しく微笑む総司に、清は抱きついた。
「きっとあの日の記憶は私たちが一緒になるきっかけをくれたんですね」
総司はぎゅっと清を抱き締めると、幸せそうに清の額に口付けを落とした。
「この子が生まれる時に、きっと清もまた生まれ変わるんです」
愛しそうな眼差しで、もう一度清を見つめると、囁いた。
「出会ってくれてありがとう」
ひらり。ふわり。
青空の中へ薄紅色の花弁が空に舞い上がり、溶け込む。
桜が舞う中、一人の男性が清の横に座った。
彼は労わるように清の肩に己のジャケットを掛けると微笑みかける。
「清?あんまり長い時間いると体が冷えちゃいますよ」
「…沖田先生…」
「はい」
「神谷清三郎は今幸せです」
「沖田総司もですよ。って私は今も昔も名前変わりませんけど」
笑う総司につられて清も笑う。
彼にあの日諭されてからぼやけていく記憶を自然と受け入れられるようになった。今は脅える事も抵抗する事もせずに為すがままに任せている。
総司の言うとおり記憶が薄れていってもあの時の想いはすぐにでも思い出せる事に気が付いたから。
「ねぇ、清。どんどん思い出増やしていきましょうね。今生きている思い出話で埋まっちゃうくらい」
そう言って、総司は清のお腹を優しく擦る。
「この子が生まれてきたらきっと昔の思い出の入る隙間無くなっちゃいますよ。総司さんなんてすぐにじゃないですか?」
「そうですねぇ…酷い言われようですけどきっとそんな気がします…」
「それでも…いつか…いつか会えたらいいですね。折角生まれ変わったんですから…」
今も忘れられない、あの懐かしい人たちに。
その優しい妻の言葉に総司は微笑んだ。
いきましょう。
今を。
精一杯。
いきましょう。
2012.01.28