「どうした、総司?」
山崎が階上に上るのを見て、下に降りようとした近藤が上階を見上げたまま動かない総司を見て、不審に思い、声を掛ける。
「いえ・・・」
と返答はするが、その言葉はうつろで彼は振り返る事をしない。
「総司」
彼が何を考えているか察した土方は、諭すように彼の名を呼ぶ。
「土方さん」
土方が次に何を言うか分かっていた。分かっていたからこそ、総司は無意識の内に彼の言葉を制していた。
「先に行っていてください。必ず追いつきますから」
搾り出すように呻くように発する総司の言葉。その言葉の奥の意味に近藤はやっと気がつき、「あぁ」と声を上げる。
土方は小さく溜息を吐く。その行動に総司はびくりと反応する。しかしそこから動こうとする事は無かった。
「分かっているんです。分かっているんです。神谷さんはずっと傍にいて、弟みたいなもので。だから」
総司の中を油の濁りが交じり合うようにぐるぐると想いが巡る。ただそれが不快で不安で言葉に旨く表す事が出来ない。
ただセイが関わる事だからという事は分かる。
彼女は怪我をしていた。傷を負っているくせに修羅場を立ち回り、傷口を広げていた。
どうしてそこまで。と思う反面、理解の出来る行動。
彼女は彼女が守りたいものを守る為に行動を起こしていた。
分かっているが。
どうして無理をするのだという彼女を責める感情を止められない。
一度も目を合わせる事が無かった。
彼女が自分を見て、そして、いつものように笑ってくれたら。
そうしたらーーーーー。
彼女はずっと傍にいて、弟みたいなものだから。
だからこんなにも心配になるのだ。
「だーれが行くなと言った。戻って神谷を見て来い。傷が酷い様だったら医者へ連れていけよ。神谷の手当てが終わるまで帰ってくんな。これから作戦練るにもお前がいてもいなくても同じだし、邪魔なだけだ。分かったな!」
土方は息を荒くして捲くし立てる様に言い放つと、そのままそっぽを向く。
彼なりの総司に対する甘さと、セイに対する優しさなのだろう。
言うだけ言うと、少し頬を赤くしたまま階段を降り始める。
総司は暫し呆けると、笑って、「ありがとう。土方さん」とだけ言うと、階段を登って行く。先程の重い足取りとは打って変わって軽やかに。
素直じゃない言動と、素直な行動に近藤も思わず噴き出してしまう。
「本当に神谷君が大事なんだな」
「けっ。何言ってやがる。意識ここにあらずの状態でも平気で敵をどんどん倒していきやがって。腹の立つ。童だってそうだ。あんな傷なら大人しく寝てろってんだ」
「トシは優しいな」
吐き捨てる様に言う土方の台詞に近藤は笑って相槌を打つ。その言葉に土方はかっと赤くなって反論する。
「何言ってんだよ!」
「二人とも心配してるんだろ」
「・・・一緒にいた方が互いに安心するならその方がいいだろ。でなけりゃ二人とも無茶ばかりしやがって」
声弱く、照れ隠しに呟く土方に近藤は、総司が登って行った階段を振り返り、「そうだな」と答えた。
階段を登りきった総司は元いた部屋の前に来て、中を覗き見るとセイが立っていた。
彼女の姿を見つけ、頬を緩ませ、部屋に入ろうとするが、彼女の横で彼女の腕に巻きつけられた包帯を解く山崎の姿が目に留まり、足を止める。
会話の内容までは聞えないが、山崎が笑っている姿を見て、胸が痛む。
何を話しているのだろう。
どんな表情を彼に見せているのだろう。
先刻の戦いの時もそうだ。二人はとても仲良さ気だった。
互いに打ち合わせ済みだったのか、視線を交わし、その目だけで会話をしていた。
二人であっという間に、標的の浪士を捕まえた。
しかし、その間セイは総司の顔を見ようとしなかった。
彼女が元気である様子を見たくて、確認したくて、彼女の顔を、刀を交わす間覗き見ようとするのだが、いつもは総司の視線に気づき、「大丈夫です」とでも言わんばかりに笑みを返してくれるのが、先刻はそれが無かった。
大きな喪失感がある。
それと同時に自分を見ないセイに苛立ちを覚え始める。
山崎が今いる位置に本来あるのは自分だ。
そんな事、誰が決めた訳でも無いのに、総司はそれを確信している。
ふと。
山崎の苦笑する顔が、柔らかく変わった。
優しく、大切なものを慈しむ様なーーーー。
「山崎さん!」
総司は気が付いたら叫んでいた。
ずかずかと今度は遠慮無しに部屋の中に入ると、セイと山崎の間をあからさまに割り込み、セイを己の背の後ろに隠す。
セイと山崎は互いに少々の怒気を含んだ総司の顔を見上げるとぽかんと呆けた。
二人が同じ行動を取る事に総司はまた苛立ちを覚える。
「山崎さん。神谷さんがご迷惑をお掛けしました。後は私が手当てをしますから近藤先生を追ってください」
反論を許さない強い口調で語る総司に山崎は口を開くが。
「今回の件、山崎さんの方が詳しいですよね。貴方がいた方が今後の作戦も立て易いと思うので」
猶も捲くし立て、一刻も早くこの場から彼を追い立てる様に続ける総司の姿に、山崎は思わず噴き出してしまう。
「何が可笑しいんです?」
「いえっ・・。なんも。ほな。私は先に行かせて頂きますよって。後の手当ては宜しゅうお願いします」
まだ笑いながら言う山崎に総司は不快感を感じながらも、セイを後ろに隠しながら彼の後姿を見送る。
すると、山崎は思い出した様に振り返り、にっかりと笑った。
「ちなみに、今回の一番の功労者は神谷はんや。勘違いせんといて下さい」
その言葉に総司は更に眉間に皺を寄せ、渋い顔をするが、山崎は満足したように笑ってその場を去っていった。
総司は彼の姿が完全に消えるのを確認して、振り返ると、セイは空いている右手と口を巧く使い、口で先程山崎に貰った布を抑えながら器用に未だ血の流れ続ける腕に巻き付けていく。
やはり総司を一度も見ようとしないまま。
彼は胸に黒い靄と苛立ちを感じながらセイの腕を掴むと、布を彼女から奪い取り、丁寧に巻き付けていく。濃い藍色をした布が黒く染まり、色を濃くしていく。
「私がいるんですから。このくらい頼んでくださいよ」
「先生のお手を煩わす訳にはいきませんから」
苛立ちを抑え、拗ねる様に言う総司にセイは彼の目を見ないまま返答する。
冷たく、感情を含まない声。それがセイが自身の溢れ出す感情を抑えている為だと気付かない総司には、冷たく突き放された様にしか感じなかった。
「心配をしているのに、その言い方は無いと思うのですが。神谷さん。土方さんだって心配して私を残してくれたんですよ」
しかしそれはセイの心を解す言葉にはならなかった。
裏を返せば土方の命令だから彼はセイの傍にいるのだ。
総司の気遣う言葉一つ一つ、彼女を思っての事だとは分かっていても胸が痛む。
「先生。先生のお役目は何ですか?近藤局長を、土方副長をお守りすることです。今、お二方は先生を必要とされているのです。私の事はどうかお気になさらず、局長を追ってください」
初めて総司を見上げ、見詰める瞳には強い光。
それは澄んでいて、固い意志を持つ、武士の瞳。
何を為すべき事か。悟り、己の誠の為に生きる。
そこに迷いは無い。
見詰め続けてしまったら、彼の答えは一つしかなくなる。
総司は彼女の瞳を見詰め続ける事が出来ず、叛けると、視線の先に腕の傷と、そして二の腕に赤黒い痣を見つける。
意識が一瞬固まる。
山崎は一番の功労者はセイと言っていなかっただろうか。
彼女はまた無茶な事をしたのだろう。
けれど。
その痣は。
まるで大きな男に捕まえられたような。
そう思った瞬間セイの肩をつかみ、胸に鋭く刺さる痛みそのままにセイにぶつけようとするが、小さな悲鳴を上げ、彼の行動を不思議そうに見上げる彼女の姿に、はっと我を取り戻す。
私は彼女に何を期待し、何を望んでいるのだろう。
感情と行動と、意思の歯車の合わない行動。
一度深呼吸をして、総司は己の全てを落ち着かすと、無言でセイをその場に座らせる。
そうして彼は彼女に背を向け、背中合わせに座ると、小さく息を吐く。
「神谷さん」
「はい」
返事は明瞭に返ってくる。
「私は武士です」
「はい」
「私は近藤先生の為に生き、近藤先生の為なら命を捨てても構いません」
「存じております」
「私は貴女をいつも守れるとは限りません」
「勿論です」
夕日は既に山間に消え、群青色の空が闇を呼び、夏の涼やかな夜風が部屋に流れ込む。
「それでも。私の傍にいなさい」
総司の言葉にセイがぴくりと震えるのを背中越しに感じる。
「いつも私の傍にいて、私の声が届くところにいなさい」
「・・・はい」
「私が呼んだらすぐに答えなさい。私が直ぐに触れられるところにいなさい」
それでなければ・・・。
「私は先生のお傍にいて、先生をお守りします」
それは彼女の決意。
恐らくは彼の中で望む形とは違うのだろうけど。
それを覆すだけの言葉と、想いの形を彼の中で為していない。
「私の傍で、私と共に、生きなさい」
血の海の中で。
緋い太陽が沈み、緋い月が昇る。
緋で染まった衣を纏い、澄み切った瞳を持つ。
決して折れる事の無い、美しく咲き誇る修羅。
清廉潔白の鬼神。
いつか昇華される緋い誓い。