土方の予想通り戦況は次第に悪化していった。
斬り捨てる浪士たちで、既に畳は血の海と、足場の悪い死体の障害物が増えていく。
それにつれて、斬る度に刀に付く、血糊がいくら露払いをしても取れなくなり始め、柄を握る腕に重みを感じ始める。まだ、彼らの方が実力はあるとはいえ、刀を真っ向から受け止める度に刃毀れ生じる。刀の切れの鈍さも増し、その分素早さよりも力を要し、体力を急激に減少させていった。
いくら腕に自信があるとは言え。
対峙する浪士たちの人数は許容量を超え始めている。
数人の隊士たちが異変に気づき、駆けつけ、彼らも同様応戦し続けているが、既に息が上がり始めているのが揺れる肩から見て取れる。
何故応援が来ない。
何処からこの浪士たちは現れる。
これだけの人間がこの屋敷に一斉に向かえば、いくら町の人間でも訝しく思うはずだ。
それなのに外からは物音がしない。
あまりにも不審すぎる。
このままでは。
「土方さんっ!」
総司の声を真横から受け振り返ると、浪士が刀を振り上げていた。土方は総認識するよりも先に振り向き様に刀を薙ぐと、男を腹部から斬り付ける。
血飛沫と共に、どっと男は床に倒れる。それを見遣る暇も無く、また後方から別の浪士が襲い掛かってきた。
「総司!」
「分かってます!」
普段温和な表情を見せ、刀を持つ時でも息一つ切らさず敵を切っていく彼でも、流石に苛立ちを見せ始める。
策士、策に溺れる。か。
土方は苦笑し、窓に向かって走り始める。
新選組に背を見せるという言葉は無い。しかし、今ここで幹部の人間しかも上位三人が死ぬ訳にはいかない。
逃げる。
その先にあるのは、自らが作った隊規に自ら処断される。
それもいいだろう。
その先に、この二人が残るというのなら。
窓に向かって進む土方の背後に、総司が回り込み、彼の背に背を合わせ、土方に向かってきていた浪士と対峙する。
昔から勘の良い彼の事だ。とっくに土方の考えなどお見通しなのだろう。
彼は土方の背を守ると、頑としてそこを動かなかった。
総司の視線を受け、土方は頷く。
近藤一人でも、この場から逃す。
「近藤さん!」
「ああ!」
敵をまた一人切り捨て、土方の元に寄る近藤。その時、一瞬の隙が出来る。
彼の真横から一人の浪士が刀を振り下ろしていた。
「かっちゃん!」
「近藤先生!」
二人同時に動くが、半歩間に合わない。近藤は向かってくる敵に振り向き様に刀を薙ぐが、相手の刀が彼の肩に深く食い込むであろう予測は変えられない。
三人が心の中で絶望と言う悲鳴を上げる。
バァン!
瞬間。
時が止まったような感覚に捕らわれた。
窓の障子が突然弾かれ、部屋の中に飛んできたかと思うと、小さな黒い影が室内に投げ込まれ、近藤に今にも斬りかかろうと巣浪士の頭上に打ち付けられた。
闇の中で、障子と言う障害が無くなった事により差し込む夕焼けの紅い光が一気に部屋を染める。黒い影が、ゆらりと立ち上がり、それが始めて人である事が認識できる。
闇に慣れ開いていた瞳孔は突然入り込んできた閃光で強制的に彼らの視力を奪うが、徐々に慣れてくる事によって、その人物が誰だかを確認する。
「神・・谷・・さん・・・?」
総司は呆然としてその光景を見ていた。
彼女は足蹴りにした浪士から離れた所に着地をするとすかさず抜刀する。
横から現れた浪士の胴を刀の抜き様に一閃すると、その反対側から出てきた浪士の喉を突く。
浪士の穴の空いた喉から声を出そうとするががぼがぼとしか音がしない。そのまま口が何かの形を紡ぐと、どっとその場に背中から倒れ込んだ。彼が倒れ込む勢いを利用し、突いたままの刀を反動で抜くと、浪士の背後、彼女の前方から既に構え、襲い掛かる浪士を正面から切り裂いた。
それは一瞬の事。
人としての迷いも、感情も無い。無常に振るわれる牙。
飛び散る血しぶきがまるで華のよう。
総司はそんな彼女に目を奪われ、魅せられた。
心の奥に震えを感じた。
これは恐れなのか。喜びなのか。
「ご無事でしたか?」
彼女が現れた窓から男が現れる。
彼女を追ってきたのか。その事に総司は一瞬ちくりと胸に痛みを覚えたが、それが山崎だと分かると安堵した。
それは他の二人も同様だろう。「ああ」と短く答える土方には初めて笑みに余裕が浮かぶ。
一階から激しく打ち付ける音が聞えてくる。悲鳴、嗚咽が交じりながら、浪士たちの雄叫びが聞えてくる。それは援軍が辿り着いた証。
「もう暫くしたら相手さんの勢いも止まるよって、あと少し踏ん張ってや」
「山崎さん!局長を安全な場所へ!」
軽く幹部三人を労う山崎に、彼らに背を向けたままセイは低い声で逃走路を促す。
「神谷はん!あんたも!」
「山崎さん!」
山崎がセイに総司たちと共に避難する様声を掛けるよりも先に、彼女は変わらず背を向けたまま、彼の言葉を拒否する様に打ち消す。
「お願いします」
それだけを言うと、セイは向かってくる敵に再び刀を握り直して突進していった。
総司は呆然として、彼の後姿を見詰める。
何故なのだろう。
彼女は無事で。今、目の前に立ち、果敢に敵に向かっているのに。
酷く彼女の存在が遠い。
ほっと安心して良い筈なのに。
心が凍りつく。
彼女は本当に。
神谷さん?
「局長!ご無事ですか!?」
ドォン!と激しく戸板を叩きつける音と共に、平隊士たちがぞろぞろと彼らを近藤たちを囲む。ある者は近藤を退路へ促し、ある者は未だ戦う隊士たちの応援に回る。戦うセイの元へ。
「そんなら、局長は任せたで!」
そう言うと、山崎もセイの背後に回り、彼女の未熟な部分を補佐するように刀を振るう。
総司は彼らの動きに目を見張る事しか出来ない。
どうして彼女を守るのが彼?
どうしてあんなに懸命に庇うのだろうか?
どうして彼に背を預けるのだろうか?
あの位置は。
「総司!行くぞ!」
放心したままの総司の着物の裾を掴むと、土方は出口へ向かう。
促され、ゆっくりと動き始めた歩みを、総司は止めた。
彼は目を見開く。
セイの着物の内から、手首を伝って流れ、畳に染みを作る液体。
緋い。緋い。
それは沈みかけた日の光を浴びて、より鮮やかに色付く。
血。
紅い血は、ぽたぽたと零れる速度を早くして、やがて一筋の流れに変わる。
何故に。
理由など無かった。
「沖田先生!?」
セイの驚きを含んだ叫び声が何処か遠くで聞えたような気がした。
彼はセイの前に立つと、彼女に斬りかかる男を一閃する。そして、動作に無駄な動き一つ無く、彼女の側面から襲ってきた浪士をいとも容易く斬り捨てた。そこで一呼吸置いて動作するかと思われた彼は、動きを止める事無く、近藤の横に向かい、彼に襲い掛かろうとしてた浪士を背後から斬った。そうして足を摺足に変えると、刀を己の目の高さに横一線に構えたまま、セイの元へと歩み寄る。
「先生、近藤先生とここを離れてください!」
「お断りします」
突然暴走したような行動を起こした総司が、制止する事で、一旦落ち着いたのだと感じ、セイは彼を諭すように静かに言うが、あっさりと断られる。
彼の起こす行動の意味が読み取れない。
何かに対して怒りを感じているのは分かるのだが、形成が逆転した今、何が理由で怒りを感じるというのだ。
そして、セイには、彼女自身己の感情を殺すのが精一杯でそれ以上彼の行動と感情を量る事が出来なかった。
その間も斬り合いは続いている。
幹部三人は既に勝利を確信しているのかも知れないが、そこにいる山崎、セイの二人は未だ緊張で神経を張り詰めていた。
まだ形成が逆転しきっていない、完全に反す為の物が手に入っていない事を彼らは知っている。
山崎はセイを見遣ると、彼女も既に心得ているように、小さく頷く。視線を交わした後、彼らはまた浪士たちを斬っていく。
その中で、微かな音も逃さぬよう最小まで耳を澄ます。
求めるのは微かな音色。
僅かな振動により震える響き。
--------リン。
二人同時にばっと顔を上げると、動くのは僅かに山崎の方が早かった。
「その男、殺すな!」
言うと同時に、近藤の背後を取った一人の浪士に向かって、小刀を投げつけた。
後僅かの所で、総司は既に薙いでいた刀を止めた。そこを見計らったようにセイが駆け込む。小刀を目に投げ付けられざっくりと差込み呻き声を上げながら抜こうとする浪士に足払いを書け、引き倒した。
彼女は馬乗りになり、体重の軽い体で精一杯男を押さえ付けると、男の着物を探り、懐から小さな鈴を取り出す。
セイは総司と目を合わせる事はせずに、その後ろに立つ山崎を振り返ると、その小さな鈴を投げる。
山崎の大きな手の平では小さすぎるその数を受け止めると、彼は手の中で簡単に破壊する。
ジャリと言う不快な音と共に中から小さな紙が現れ、山崎は内容を確認すると確信の笑みを浮かべる。
「副長。相手さんの尻尾掴みましたよって」
未だ応戦続けていた土方は振り返ると、刀の露を払いながら、山崎に近づく。
「この紙に何が書かれているんだ?」
山崎の手の平にある小さな文字の書かれた紙を覗き込むと、笑う彼に答えを促す。
「相手さんはこの巧妙に隠した紙を使こぅて、倒幕派の仲間を集め、起こす行動を緻密に指示出していたんや。あの茶屋、この屋敷にいる者皆グルでっせ。表口、勝手口の他に山側に隠された入り口がもぅ一つある。そこ出ると小さな山の反対側まで繋ぐ道があるんや。抜けると丁度今回よう手ぇの込んだからくりを仕込んだ浪士たちが仰山と集まってはる。表側に配置された隊士たちには気づかれようなっている訳や。だから屋敷で戦闘が始まって賑わうまで気づかず、応援も遅れてしもうたと言う事です」
「成程。つまり相手にはこんな屋敷を抑えるほどの其れなりの身分の商家が関わっている・・」
「勝手口、表口、今回使こぅた入り口もこちらからは塞いだ。これ以上は入って来れへん。山の向こう側にはまだ手ぇは出しとらんが既に見張りは付けとります」
「と言うことは・・・次の指示は・・」
土方はにやりと笑う。
「この地図の場所や。ここでの出来事が成功したにせよ、そうでないにせよ、一度情報を集めなぁならん。今回の黒幕まではそこにおらんとしても、それに近しいもんは必ずいるはずや。この事を伝える為に」
「鈴でしか指示が与えられていないから、ここいる奴らいくら捕まえても吐く事も出来ないはずだ」
「しかも、鈴を持っているのは限られた者のみ」
山崎と土方は視線を交わすと、互いに笑みを深める。
「良し!次の目的地が決まった!行くぞ!総司!」
二人の会話を沈黙して耳を傾けていた近藤は声を上げる。
「させるか!」
近藤が声を上げると同時に、セイが馬乗りで押さえつけていた男は勢い良く立ち上がり、彼女を跳ね飛ばすと、近くに落ちていた刀を握り近藤に向かって薙ぐ。
しかし。その刀が近藤まで届く事は無かった。
咄嗟に動いた総司が彼の前方から回り込み、上段から斬り下ろし、体制を直したセイが後方から、彼の腹部横一線に斬り付けた。
両方から大量の出血をさせ、浪士は絶命する。
「あぁ。貴重な捕虜を殺しやがって」
「死んでしまったものは仕方が無い。行くぞ」
呆れ口調で呟く土方に近藤は諭すように先を促す。
総司もそれに合わせて動いた。
「神谷君は?」
近藤が彼らに背を向けて立つセイに声を掛けると、「私は後始末をしてから向かいますので、どうぞ先にお戻り下さい」とだけ答える。
決して総司を振り返る事無く。
「ああ。任せた」
そんな彼女の最後まで決着を付けてから次の行動に移すと言う心に感心させられたのだろう、近藤は満足そうに頷くと、隊士の一人に案内され階段を下りていく。
山崎もその後に続いたが、ふと、考え込むと、手の平で握り締めていた髪を土方に渡し、「先に行っとってください」と告げると、ひょいひょいと降りた階段を登っていった。
彼が先程まで乱闘のあった部屋に戻ると、セイが一人既に遮るものの無い窓から降り注ぐ夕日を浴び、着物を緋く染め、浴びた血を黒く照り返しながら立ち尽くしていた。
背後から彼女の表情を読む事は出来ないが、彼女の肩口から着物を紅く染め、指先を伝い零れ落ちる血が彼女の心の痛みと連動しているようで痛々しさを覚える。
山崎は溜息を吐いて彼女の傍に近づくと、威嚇するような彼女のピリピリと張り詰めた空気が伝わってくる。顔を覗き見ると、瞳は未だ澄み、いつでも戦える程冴えた色をしているにも関わらず、無数の涙ぽろぽろと零れ落ち、柔らかな丘陵を描く頬を伝う。
果たして彼女は今自分が泣いている事を自覚しているのだろうか。
山崎は苦笑すると、懐から出来るだけ綺麗な布を取り出すと、それを腕に掛け、セイの腕に綺麗に巻かれている包帯を外す。それは既に真っ赤に染まり本来の役割を果たしていなかった。
「ご苦労さん」
掛けられた労いの言葉に、初めて意識を取り戻したかのようにセイは山崎を見ると、表情を歪ませた。
「・・・ずるいです」
山崎は彼女の言葉に返答する事無く、一人呟く言葉に耳を傾けている。
「沖田先生はずるいです」
近藤を守る為に総司は生きている。
だったら近藤を守り続ければ良いのだ。他の事など構わずに。
セイのように平隊士まで気遣う事などしなければ良いのだ。
そうしたらセイだって期待する事は無い。
考えて、そんな浅ましい考えを持つ自分に嫌悪を覚える。
彼がそんな人間ではない事は誰よりも知っているくせに。
それは自分自身の想いを肯定したいだけの言い訳に過ぎない。
総司は優しい。
どんな時でも、どんな場面でも、彼は彼女を守らないと公言しながらも、彼の生来の優しさの為か、体が動いてしまっているのだ。
守られる事に喜びを感じる自分。
自分は彼にとって大切な人なのだろうかと期待してしまう。
「私は愚か者です」
「そうかい」
山崎は一人心の中で苦悶するセイが導き出した答えに静かに応える。
「オレはそんな神谷はんが好きやで」
そういうと、傷を露にした腕をぽんと優しく叩く。
セイは涙で濡れた頬に笑みを浮かべた。