セイは息を切らしながら走っていた。
とある場所に向かって。
走る度に、小さく、リン、と懐から小さな鈴の音が鳴る。
それは静かな闇の中で、一層自己主張をしていた。
その音が自分の存在を知らしているようで、彼女は懐に手をやると、しまっていた小さな鈴を手の平に閉じ込め、音が漏れるのを塞ぐ。
それは彼女が傷を受けた時、彼女と対峙する男から落ちた鈴だった。
彼が息の根を引き取った時、倒れ込んだと同時にセイの着物に忍び込んだのだろう。彼女が良順に対し頭を下げた拍子に着物の裾から落ちてきたものだった。
最初は何故そんな物が己の着物の中に雑ざっているのか分からなかったが、落ちた鈴の音が本来の鈴の音に交じり、微かだがかさこそと言う音がする事に気が付いた。
意を決して慎重に鈴の中から不審な音の正体を取り出すと、小さく丸め込まれた紙が出てきて、開くとそこには地図が描かれていた。
良順はセイを見て、彼女の表情を読み取るなり、直ぐに制止する。
「やめろ。一人で行く気か?どれだけの人数がいるのか分かんねーんだぞ」
「それでもーーーー。他の人に頼る訳にはいきません」
今、屯所は近藤を警護する事と、敵の正体を掴むのと同時に、迎撃の準備をする為に、全ての人間が動いているだろう。そこにはこれ以上余計な人数を割く余裕は無い。それはセイが良く知っている。
「罠だったらどうする気だ。お前一人で行くなんて、ただの無謀にしか過ぎないだろう」
「・・・松本先生。お願いがあります。誰かこの地図を持たせて屯所まで使いをやってくれませんか?それまで私がこの指示される場所に向かって、彼らの動向を見張ります。何も無ければ良し。あれば他の隊士が来るまで見張っていますから」
「しかし・・・」
「お願いします」
制止する良順の言う事を聞く気など最初から無い。この地図に向かう事で何か情報を得る事が出来るかも知れないのだ。勿論危険なのは承知している。それでも、敵の正体が掴めない今、どんな情報でも欲しい。動かない訳にはいかない。
セイが真剣な眼差しで良順から目を逸らす事無く、見据えると、彼は溜息を吐き、「分かった」と短く答えた。
そして、セイは今、地図で描かれた場所に向かっていた。
そこは通りの直ぐ横を川が流れる、小さな小路だった。
明かりは何も無く、人影を映し出すのは、沈みかけた強い太陽の日差しのみ。
それさえも逆行を浴び、濃い影を作り、近づくまで人物の姿が分からないような状況だった。
そんな小路を走っているところに、ふと数人の人影を見つける。途端、セイは走る足を止めて、僅かな物陰に身を隠した。
一瞬にして戦場と同じような独特の緊張感が全身を走り、自然と腰に差す刀の柄に手が掛かる。
それでも殺気を悟られないよう、震える心臓をぐっと宥め、気を押し殺す。
人影は、武士の格好をした男5~6名。彼らは小さな円を作ると、周囲に気を配りながら、一言二言会話を交わす。
彼女から彼らの位置は遠すぎて、流石に話の内容までは聞えてこない。
耳を澄まし、身を少し乗り出し、もう少しだけと、懸命に耳を傾ける。
----リン。
小さな鈴の音が男たちの間から聞えた。
予感的中と、セイは心の中でほくそ笑む。
更に耳を澄まし、じっと会話を聞き取ろうと努力する。
「守備はどうだ?」
「ああ。あいつらの居場所なら押さえてある。こちらの予定通りに動いている」
あいつら。
セイは途端に全身に緊張を走らせた。
彼らが言う『あいつら』とは。
やはり、近藤たちの事であろう事は否めない。
しかし。だとすると。
彼らは今、居場所をしっかりと押さえてあると言っていなかっただろうか。
屯所へ戻っているのならそんな言い方をしないだろう。
彼女が茶屋を離れ、その後彼らは何処へ向かったというのだろう。
密会を続ける彼らは、近藤たちが何処にいるのか確実に知っている物言いである。
しかも。『予定通りに動いている』と。
つまり近藤らは、屯所ではない、何処か別の場所へ誘き寄せられているのだ。
じわりと腕の傷が痛み、セイは己の包帯を巻く腕を押さえた。
自分はここで何をしているのだろう。
近藤がいるという事はきっと、総司もそこにいる。
助けに行きたい。無事な姿を見たい。
衝動が胸に走る。
しかし何処へ向かえば良い?
身代わりの盾にさえなれないかも知れない今の自分。
それでもまだ、間に合うのだろうか。
セイは己の想いに心を馳せ、握り締めたままの鈴の存在を忘れていた。
傷を負い、握力の弱くなっていた手から鈴が零れ落ちる。
リン。
静かな闇に、涼やかな波紋を作った。
セイは咄嗟に手から零れ落ちた鈴を掬い、握り締めると、己の懐にしまい直す。
「誰だ!?」
浪士の一人が振り返り、セイは壁に身を隠そうとしたが、遮る障害に肩を打つ。
「この童。先刻茶屋に居た奴だな」
障害物だと思っていたのは、身を隠していたセイの横に立っていた屈強の男で、己を捕まえようと伸ばされる太い手から身をかわすが、僅かに遅く、あっさりと腕を掴まれ、羽交い絞めにされてしまった。
闇に紛れていた男たちもにやにやとした下卑た笑みを浮かべながら彼女に近づいてくる。
「新選組の中にはこんな女みたいな奴もいるのか」
「女じゃない!私は武士だ!」
セイは己を捕らえる腕から逃れようと抵抗を試みるが、彼女の倍はあるであろう太い腕はびくともせず、逆に力を入れる度に腕から鋭い痛みが走り苦痛を伴う。
浪士の一人、恐らくはこの仲間の中で頭なのであろう人物は「ふぅん」と己の顎に手を掛け、何かを考えるような仕草をすると、突然セイの懐に手を入れると鎖の胴衣を着けている上から着物の中を弄り、目的の物を探り当てる。
リン。
小さく鳴る鈴が、夜の闇の中できらきらと光る。
「懐に鈴が!?これは例の?」
別の男が声を上げる。
「ああ」
頭の男はそう短く答えると、鈴を地面に転がし、勢いよく踏み付けた。
ざり。という耳障りな音と共に、呆気無く鈴は本来の形を無くす。
「中身は既に抜き取られているか・・・。偶然と言う訳では無さそうだな」
冷たい視線がセイに注がれる。
「既にこの場所は知られていると言う事か・・。しかしこの鈴には地図しか入っていなかったはず。計画までは見破られていないはずだ。そうするとあいつらの行動は誘導か、態と乗って見せているのか、けれどその割にはその素振りを見せない。しかも密偵はこの童一人のみ・・・」
頭の男は考え込む。すると隣にいた男がじっとりと嫌な笑みを見せてセイに近づく。
「一人で手柄を独り占めというところか。お前一人に何が出来る訳でも無さそうだがな」
吐き出された言葉にセイは胸の痛みを感じると同時に、太ももにざらりとした圧迫感を感じ、視線を下ろすと、自分を押さえつけている男のごつごつとした手が彼女の肌に袴の上から絡み付いてくる。
内股に袴を捲り上げられる様に撫でられている。
瞬間に走る悪寒に、吐き気と焦燥感が彼女を襲う。
「それともこっちから誑し込んで、情報を抜き出そうという事か?」
撫でられる度に溢れてくる嫌悪感に逃げ出したくなる衝動をセイは無理やり抑え、じっと考え込んだままの頭の男を睨み付ける。
我慢するのだ。
ここで逃げ出してはいけないのだ。
まだ彼らが何を企んでいるのか聞いていない。
誰が黒幕なのかも。
近藤たちが何処に連れられているのかも。
今の彼女に何が出来る訳でも無い。ここから逃れられるかも分からない。
それでも彼女は必死になって、少しでも情報を得ようと耐え続ける。
じわりじわりと己の体を這う不快な手。
きっと彼女に今この場で彼ら全員を倒す事が出来る程の力があれば、直ぐにでも切り裂いてしまうだろう。
太ももを這う手が下腹部に触れた。
体の芯から戦慄が走る。
こういった場面の時、いつも丁度良い所で総司が助けに来てくれた事を思い出し、そんな自分をセイは自嘲する。
同時にそんな儚い夢を見る自分を激しく非難する。
今も期待をし、我慢をしていた自分を嘲笑う。
助けに来る事など無いのだ。
彼は自分がこんな所にいることさえ知らない。
彼は彼の守るべき人の傍にいて、今、きっと懸命に守っているのだから。
自分を助けに来る余裕など無い。
何を望む。
自分は武士だ。
自分の身は自分で守らなければならない。
自分の尻拭いは自分でするのだ。
今のこんな姿を見られたら、きっと彼は激しく叱咤するだろう。
自分さえもまともに守れない人間が、武士だというのか。と。
いや。きっとそれさえも、彼は言わない。
彼が自分を心配する等と思うのは思い上がりもいいところだ。
これが私の望んだ結果か。
現実に引き戻す、ざらりとした手の感触、不快感と、突きつけられる現実に、望みもしないのに涙が瞳に溢れ出す。
「泣きそうか?啼くのはこれからだろう?どうせ後は俺達に殺されるだけなんだ。いいよな。一度くらいいい夢見させてやっても。男は普段は興味はないんだが。このくらい別嬪なら一度くらい犯ってみてもいいだろう。それに本当に女かどうか確かめてみたかったんだ。まさか新選組に女がいるとは思えないが、こんなにひょろい男今までに見た事がない」
屈強の男が頭の男を見上げると、彼は溜息を吐き、男の問いに返答する事はしない。
それを許可と取ったのだろう、セイをその場に引き倒すと、彼女の着物に手を掛ける。
抵抗しようとする意識が反射的に表れるが、セイは己を殺し、為すがままにされる。
まだだ。まだ。見つけていない。
セイはじっと己の体を這う指の感触から意識を外し、蔑む様な目で己の肌を楽しもうとする男を見上げていた。
着物が勢いよく脱がされる。鎖を着込んでいても、彼女の腕や鎖骨は曝け出され、その白さと、見た目からも分かる円やかな曲線に、黙って見ていた周囲の人間も息を飲む。
太陽の光が屈強の男を逆光で包み込む。
傷の縫い合わせたばかりの腕に彼の舌が這う。
彼の行動を、周囲から降る下卑た笑みを、彼女の目は追い続けていた。
「終わったら計画を実行するぞ。向こうがどう出てくるのか手が読めない。御方の手の内が既に読まれているのか」
頭の男だけは興味が無いのか、言って彼は己の着物の裾に目を向ける。
セイはそれを見逃さなかった。
己を組み敷く男を見詰め、彼が己の鎖帷子に手を掛けた瞬間、声を上げたのは、セイでは無くて、彼女に覆い被さる男の方だった。
「ぎゃあ!」
突然の悲鳴に頭の男が振り返ると、セイを先程まで組み敷いていた男は、夕日の中で目を押さえ、どろりとした黒いものが流れ出るのを必死に抑えていた。
驚くと同時に小さな物が自分の目の前に現れた事に気がついた瞬間、己の腕に熱を感じる。
見ると、手首から大量の血が溢れ、手首から先が地面に落ちている事に気が付いた。
意識がセイがやったのだと気が付いた時には、彼女は周りにいた他の男たちに取り押さえられている姿を見た。
彼女の右手には刀が、左手には小さな鈴が収められている。
これを狙っていたのだ。
彼が何処に鈴を隠しているのかを探っていたのだ。
やけに抵抗をしない童だと思った。
普通なら逃げ惑う事や、悲鳴を上げる事、抵抗をする事くらいするはずなのに。
それも己を武士と名乗る矜持故かと思った。
違うのだ。
彼女は抵抗しなかった。だから、男たちは諦めたのだと思ったのだ。
されるがままになるのだと。
彼女の手を、足を押さえつける事をしなかった。
抵抗すれば、その時押さえつければ良い。
そんな僅かな余裕。
それさえも彼女の思惑の内。
手首の付け根に当たる着物の裾に鈴を括りつけていたのを、自身の身を投げ出し、弄られながら、狙っていたのだ。
怒りのままに頭の男は拳を挙げ、セイを振り返る。
「きさまぁ!」
叫んだと同時だった。
それが彼の最後の言葉だった。
次の瞬間には、彼は胴と下半身を二つに薙ぎ払われ、この世の者では無くなっていた。
「新選組のよりによって、神谷はんを狙うとは、運が悪かったな」
低い声が、二つに切り裂かれた男の後ろから聞える。
細い刀身が、夕日に反射し、緋色に染まっていた。
逆光で黒い影となっていた人物が、セイの元に近づくに連れて、姿を現す。
「・・・山崎さん!?」
セイが声を上げたと同時に、周囲から刃を向けた男たちが、ザザザッと二人を中心に浪士たちを取り囲む。
「・・・皆・・・」
それは新選組隊士たちだった。
「お前!よくもっ!」
「っ!」
屈強の男はセイと山崎の背後に回ると、傷のあるセイの腕を掴み、力任せに引く。片方の手は瞑れた目から零れる血を抑えながら。
セイは安堵し、緊張感を咄嗟に解いてしまった自分を呪いながら、掴まれた腕の痛みに声にならない悲鳴を上げる。
振り返った山崎は彼女を捕らえた人物の顔を確認するとあからさまに顔を顰めて見せるが、屈強の男は気にも留めない様子でセイを弄るように見ると、隣に立つ山崎に下卑た笑みをみせた。
お前達はいつもコイツで遊んでいるんだろう?俺にも遊ばせろ。
そう言うかのように。
「・・・・その汚い手ぇ、早ぅ放せ!」
山崎がそう言い放つと同時に、力加減一切無く、男の胸部から蹴り上げ、セイから引き剥がす。為すがままに胸部を蹴り込まれた男は、肺が破裂でもしたのだろうか、青紫に顔を変色させ、頻りに咳き込み、その場に蹲る。
「くそぅっ!」
浪士たちは思わぬ急襲に応戦する者、逃げ出す者様々で、直ぐにその場は戦場に変わる。
セイも、自分の刀を直し、応戦する。
決着が付くのに時間はかからなかった。
セイ一人なら兎も角、ここに召集された隊士は手練が多かった。数は浪士よりも少なかったが、あっという間に終わった。
己の後ろで息を荒くして呼吸を繰り返す存在に山崎は振り返る。
「沖田先生は!?近藤局長は!?」
そこで土方の名が出ないのは、セイのセイたる所以だろう。開口一番にこんな目にあった己の心配よりも、上司の心配をする彼女を見て、山崎は苦笑する。
「大丈夫や。ちゃんとお三方とも生きとる」
それを聞くと、セイは安心したように息を吐く。そんな彼女の様子を改めて見下ろし山崎は顔を顰める。
着物は上半身肌蹴、肩を露にしたまま鎖帷子だけを纏い、下から晒が覗く。腕に巻かれた包帯は幾度も過度に動かした為に、縫った傷が裂け、じっとりと血が滲み出して既に役割を果たしていない。袴は紐を解かれ緩み、彼女の腰からずり落ちかけていた。
「堪忍な。情報がもう少しだけ欲しかっただけに、神谷はんに辛ぅ思いさせて」
そう言って、山崎はセイの肌蹴た着物を着付け直してやる。
きっと彼女はこんな事には慣れていないだろう。澄み切った彼女の目を見れば直ぐに分かる。
そんな彼女にどれだけの恐怖を与えてしまったか。
思うだけで、山崎は既に事が途切れたとは言え、組み敷いた男を、それを笑って見ていた男たちに殺意を覚える。
「何を言ってるんですか!私が勝手に一人で来たんです!こちらこそ有難うございました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
セイはそう言うと、自分を労う暖かい言葉に涙が込み上げてくるのを抑えて、深々と頭を下げる。
「なんや。しおらしい神谷はん。神谷はんやないみたいやな」
「どういう意味ですか!」
思わず顔を上げ、睨み付けるセイに、彼女がいつもなら取るであろう行動が戻ってきて、山崎は微笑む。その事に気が付いたセイも己の中に渦巻いていた黒い感情が霧散していた事に気付き、つられて笑う。
心配してくれたのは彼だけじゃない。周囲を見渡せば、誰もが心配そうに彼女を見詰める。
暖かい山崎の気持ちに、優しい自分の周りの人たちに、セイは感謝の気持ちで一杯だった。
だからといって何時までも彼らの気持ちに甘えている訳にはいかない。
「それで。その鈴は?」
「はい」
それはこの場にいる誰もが分かっている事。セイは直ぐに真顔に戻る山崎を見て、緊張を戻し、握り締めていた鈴を手の平に乗せて見せる。
すると、彼女はおもむろにそれを地面に落とし、先程浪士の頭の男がやったように、踏み潰した。
ざり。という金属が軋む音が聞える。
中から一枚の紙が現れた。それを摘み上げると、中身を確認する。
じっと読み続けていた山崎は、何かを心得たように、にやりと笑みを浮かべた。