9.修羅と鬼神3

消毒液や薬品の匂いが医療器具独特の匂いと混ざり、医療所が持つ香り漂う一室。
セイにとっては嗅ぎ慣れた匂いが鼻を衝く。
小さい頃から嗅ぎ慣れているせいか、いつもなら落ち着く気がすることさえする香りが今の彼女にはずきずきと痛みを与えるだけに過ぎない。
鋭利な痛みが、ほぼ等間隔で腕から全身に向かって走る。
いっそ神経が無ければこんな痛みに耐えることもないのにという気さえしてくる。
痛みを知らなければ、心の中に疼く痛みを感じる事も無いのに。
しかし今はこの痛みが彼女にこれが現実である事を知らしめ、痛めつけた。
これは罰なのだ。
だから受けなければならないのだ。
セイは唇を噛み締め、縫い合わせていく己の腕の傷をただじっと見詰めていた。
自ら自分を痛めつけるように。
「そんなに我慢をするな。腕に力が入り過ぎて血が止まらねぇだろ」
製の傷口を縫い合わせながら、松本良順は溜息を吐いた。
上段から肩に向かって振り下ろされた為に出来た傷は彼女の二の腕に食い込み、骨まで達しようとしていた。動脈を切ったらしく大量の血が傷口から流れ出て、肩から止血帯で締めているにも関わらず、未だ止まる事が無く、彼女の白い腕を赤く染め、手を伝い床へと滴り落ちる。救いなのは、それだけ深く切られていても、神経を傷つけられていない事だろうか。神経さえ切れていなければ傷口を塞ぐのに時間を要するが、また前のように刀を振るう事が出来る。
刀で身を立てる事に全てを捧げているセイの気持ちを知っているからこそ、彼女からそれが奪われてしまったらどうなるのかは想像するのでさえ恐れる。元々女子なのだから、女子にこのまま戻すと言う事も出来るのだろうが、彼女にとってそれは命を奪われる事に等しいと言う事も知っている。
だからこそ複雑な想いを抱きながらも良順は安堵せずにはいられなかった。
「神谷は大丈夫なんですか?」
セイを良順の元へつれてきた隊士が、眉間に皺をじっと痛みに耐える彼女を見詰め、良順に問いかける。
茶屋で、この隊士がセイを見つけた時、彼女は肩から着物を己の血で染め、相手の返り血を頬に受けたまま、何かに耐えるようにじっとその場に座していた。
彼女の肩を紅に染め続け、着物を伝って床に流れ続ける血液の多さに、彼は驚愕し、彼女を立ち上がらせ、医師の下へ連れて行こうとしたが、既に彼女は貧血を起こしかけていて、立ち上がる力も入らずに、その場にいた別の隊士と二人で担いで連れて来たのだ。
いや。本人はその場に居たかったのかも知れない。
流れ続ける血を厭わず、ただ痛みを受け入れているようだった。
まるで自分で自分の傷口を広げるかのように。
未だその様子の変わらないセイを不安に思い、隊士は彼女を覗き込む。
「コイツは大丈夫だ。傷も直ぐに良くなる。だから先に屯所に戻ってろ。近藤に報告しなきゃなんねーんだろ。何日かこっちで預かっておくと伝えておけ」
何の感情も見せないセイに良順は溜息を吐くと、縫い終わった腕に包帯を巻きながら隊士に言う。
二人の隊士はセイの様子に良順の言葉をそのまま納得するのは難しかったが、報告すると言う隊務もある為、渋々頷いた。
「沖田先生にも心配しないように伝えておくから」
「早く元気になって帰って来いよ」
それらは彼らにとって労いの言葉に違いなかった。しかし今のセイにはその言葉さえもが辛く、俯くとコクンと小さく頷いた。
「宜しくお願いします」
茶屋から一度も発せられなかったセイの口から初めて言葉が聴けて、隊士たちはほっと息を撫で下ろすと、安心したように去っていった。
後に残るのは、良順とセイ二人のみ。
決して広いとは言えない部屋であっても、二人で居ると何処か広く感じさせる。
そして両者ともから何も言葉を発せられる事の無い静かな空気が徐々にセイに重苦しさを与えていった。
「それで。どうしてそんなに自分に腹を立てている?」
良順の言葉にセイははっと顔を上げると、すぐさままた表情を曇らせ、頭を垂れると、その大きな瞳からぼろぼろと大粒の涙を零す。
耐える様に震えるかの授与の肩には自然と力が篭り、今巻いたばかりの包帯に既に血が滲んでいた。
「自分が情けなくて仕方無いんです。こんなにも愚かな人間だったのかと。自分で自分が許せないんです」
ぽつりぽつりと語り始めると、今までずっと己の内で溜め込んでいたのだろう己の感情が洪水のように溢れ出し、流れに任せたまま、吐き捨てるように心情を語り始めた。
「沖田先生が近藤先生をお守りするのは当然の事です。先生はその為にいらっしゃるのだから。私だってあの時、あの場にいたら、同じ行動を取っていたでしょう。それが私達のすべき事です。それなのに・・・」
そこで噛み締めるように、。セイは一瞬口を噤む。
「女子の私が悲鳴を上げるんです」
近藤の背後には彼を狙う敵がいて、自分の前方には自分を狙う敵がいた。
総司の声でセイは気付いたし、セイの声で総司は気が付いた。
咄嗟に体が動くのは。
守るべき人の為。
だから総司は近藤を守り、セイはそれを知っていたから、彼女は近藤を守る為に走るのではなく、自分の身を守った。
それでも。
「私は武士です。そこに女子の心があってはならないのです。ましてや敵と対峙している時に女子の心を持つなど・・・」
セイはただ強く唇を噛む。
血の味がしたような気もしたが、それさえも罰。傷さえも己の罪から見れば軽いものでしかない。
「それでも・・・。あの瞬間。沖田先生が近藤先生を守る事を選んだ事に心を痛める自分がいるんです」
守りたいと思うのは自分ではない。
大切だと思うのは自分ではない。
どんなに傍にいようとも、どれだけ時間を共有しても、どれだけあの人を想っても。
あの人の最も大切な人は一人きりなのだ。
それが揺らぐ事など決して無い。
そんな事は心得ている。心得ていて尚、それでも彼の傍にいる事を選んだのだ。
見返りを求める事は無い。
ただ彼の傍で、彼の守るものを守る為に、彼を守れたら。
それは変わらない願いなのに。
分かり切っていた事実を、改めて見せ付けられた。
その事に胸を痛めているのだ。
こんなに愚かで、滑稽な事等無い。
「私は、本当に・・・自分が許せないです・・・」
「セイ・・・」
良順は言葉を掛ける事が出来なかった。
セイは無言のまま、着物を着直す。傷口を縫う為に露にしていた肩を隠し、襟口を整えると、すくっと立ち上がる。
「おい。待て。何処へ行く気だ」
良順は慌てて彼女の腕を掴み制止する。
「局長の元へ戻ります」
「その傷でか!?無理に決まっているだろう!お前は今刀さえまともに持つ事が出来ないんだぞ!血だって足りなくなっているから直ぐに貧血を起こして、倒れるのがオチだ。そんな役立たずで行ってどうする!」
恐らくは、消毒したとはいえ、傷口から多少なりとも菌が入り込んでいるだろう。これから夜にかけて今は傷口だけに持つ熱が全身を巡るだろう。倒れないはずがない。
良順は多少辛い口調になりながらも、医師として彼女が行くのを止めようと説得する。
それをセイは少しも動じる事無く振り切った。
「それでも、私の体が局長の盾に位はなれますから」
淡々と告げるセイに良順は唖然とする。それを納得したと受け取ったのだろう、セイは踵を返すと、戸口へ向かう。
すると、先程まで己のいた場所から良順の笑い声が聞えてきた。
「お前は立派な武士だよ」
訝しげにセイは振り返り、嬉しそうに笑い続ける良順を見た。
「自信を持っていい。お前は武士だ」
「・・・私は未熟者です・・・」
真っ直ぐ見据えてくる瞳から目を背け、セイは俯いて、恥じるように呟く。
「いいや。お前は沖田を好いている。好いている男に守られたいと願うのは当然の事だ」
「違います!私は先生をお守りしたいんです!」
反論するセイを良順は片手を挙げて制すると、言葉を続ける。
「まあ聞けよ。守りたいとは言っても、守られたい、自分を最も大切に想われたいと思ってしまうのは当たり前の事だろう。けどな、お前は迷いで己の意思を歪める事は無い。迷いながらもちゃんとやるべき事を知っている。動く事が出来る。自分がどうするべきかを」
セイは目を見開き、良順を見る。
「男とか女とか関係ねーよ。思ってしまうものは思ってしまうんだし、迷ってしまうものは迷ってしまうんだ。己を許せないというのならそれもいい。だったら迷ったまま、許せないまま、自分が今すべき事をしろ」
良順はにっこりと笑って言う。
「お前は間違えなく武士だよ」
セイはその場に座し、深く頭を下げた。