14.着物越しの温もり1

「この世界には物語を創る人間と、綴る人間がいるんですよ」
彼は静かに、そして、穏やかな笑みを浮かべ、私にそう言った。

セイが彼と出会ったのは、まだほんの数日前。しかし、彼女は一目で彼に魅了された。
いや。その表現は正とも誤とも言えない。
何故なら、彼の今までに見た事の無い行動に魅かれたのだったから。
その時、彼は歌っていた。
場所は小ぢんまりとした決して大きいとは言えない茶屋。もう何十年と営業を続けてきて、綺麗とは言い難い。それでもこの店の主人が作る葛きりは絶品で、夏場ともなれば、小さく風も通らない店の中でただでさえ暑いというのに、人混みで更に暑さが増す。
そんな人気の店だった。
そんな場所で彼は歌っていた。
句を詠むのではない。詩を詠むのではない。音に詩を乗せて、声に出して滑らかに歌うのだ。
童歌や、数え歌とも違う、難しい言葉を使う事も無く、形式も無く古語も使わない。口語そのまま叙情的に歌い上げるのだ。
セイは思わず、お土産用に包んで貰っていた菓子の代を払う手を止めて、彼に見入ってしまった。
彼の歌が終わると、周囲の静けさに耳が痛くなるのを感じた。
彼女は彼の歌に魅かれていた自分に妙な羞恥心を感じ、口を開けたまま変な顔をして見入っていた自分を誰かに見られていなかったかと慌てて周囲を見渡すが、周りを見て、彼女は逆に安心してしまう。
店にいた他の者たちも同様に放心していたからだ。
其々が歌の余韻も覚めぬまま、はっと我に返ると、恥ずかしそうに頬を染める。
そうして何処からか一つ二つと拍手が聞えてくると、周りの者たちも参加して、疎らだった拍手が、いつの間にか店一杯に広がる。当のセイ本人も人一倍大きな拍手を送っていた。
店の外から、何事かと不思議そうに店内を覗き込む者もいる。
彼らには今のこの歌を聞く事が出来なかった事が残念なようで、それでいて、聞けた自分を誇らしげにセイは感じていた。
その歌を歌っていた当人は 溢れんばかりの拍手を送る周囲にしきりに頭を下げる。
その姿が先程まであんなに綺麗な歌を歌っていた人物とは思えなくて、拍手を送っている人間から笑い声が聞えてくる。
年の頃は20代前半くらいであろう、生地の薄い着流しを少し緩めに首元を空け纏っていた。平均から比べると背が高く、痩身である事からひょろりとした細く弱々しい印象を与える。
現に近寄ってくる者に、労いの言葉を掛けられ、肩を叩かれる度に、よろよろと彼の足元が覚束無い。
セイも自然と足が向き、彼に近づいていった。
「凄いですっ!凄いですっ!本当に素晴らしかったです!」
頻りに拍手を繰り返しながら、セイは感嘆の言葉を彼に伝える。すると彼は喜び、笑顔を見せる彼女の様子に目を丸くすると、柔らかな笑みを浮かべる。
「そこまで繰り返し同じ言葉を使って貰えるほど、喜んで頂けて光栄です」
彼の言っている意味が分からず、セイは「ほへ?」と首を傾げるが、悪戯っぽく笑みを浮かべたまま見詰めてくる彼の視線を受け、自分の言った言葉を反芻すると、彼が何を言いたかったのかに気が付き、かぁと顔を赤くする。
「は・・・恥ずかしい。私、凄いばかり凄く連発してましたね・・・あっ!」
また『凄い』を繰り返した事にセイは羞恥で顔を更に赤くし、彼を見上げると、余程笑うのを我慢していたのだろう、大声で笑い始めた。
「いえっ。有難う御座います。言葉も出ない程感動して頂けたのでしょう?」
笑いながら問いかけてくる彼にセイはこくこくと大きく首を上下に動かす。
「今のは歌ですか!?今までこんなの聞いた事ありません!童歌とも数え歌とも全然違いますよね!」
「確かに今のも歌ですよ。思う言葉浮かぶ心そのままに、曲に乗せ綴る歌。そんな歌も良いでしょう?」
「はい!」
セイは興奮冷めぬまま、大きな声で答える。
そんな彼女の姿を見て、彼はまた嬉しそうに笑った。
「座りませんか?葛きりおごりますよ」
そう言って、彼は近くにあった長椅子に腰掛けると、セイにその隣を座る事を促すように手で示す。
「いえ!私に奢らせて下さい!折角素敵なものを見せて頂きましたから!」
首を振るセイの横で、すっと葛きりの入ったお椀が二つ差し出される。
「店の奢りです。どうぞ。良い時間を提供して頂いたお礼です」
おっとりとした店の女将はにっこり笑うと、一礼をする。
「有難う御座います」と彼は女将に礼を言うと、また仕事に戻る彼女の後ろ姿を見送りながら、差し出されたお椀の一つをセイに差し出す。
「二杯も流石に食べられませんので、もし宜しければ食べてください」
にっこりと笑顔を向けて言う彼に、セイは一瞬戸惑うが、迷った挙句、差し出されたお椀を手に取ると、「有難う御座います」と礼を言う。
「今日の戦利品です」
それだけを言うと、彼は美味しそうに黒蜜の絡まった葛きりを食べる。
セイもそれに習って食べ始めた。
食べている途中、ただ黙々と食べているのも可笑しいと感じ、何か言葉を掛けようと、セイは彼の表情を覗き見るが、彼は幸せそうに食べ続けており、何となく声を掛け辛いと感じる。のでは無く、掛けなくても良いと思った。今、この一瞬、時間を共有する事が不思議に心落ち着いて、彼には気遣いをする必要な無い様に思えた。
長く傍にいる人、例えば家族や同志で言葉も無く一緒にいる事が苦にならないというのは、分かる気がするが、初対面でそんな雰囲気になれるのが彼女には不思議でならなかった。彼の持つ、独特の空気がそうさせるのだろうか。
不思議な人だな。
そんな事を思いながら、セイは葛きりを食べていた。
隣で美味しそうに葛きりを食べていた彼は、お椀が空になると、満足そうにそれを横に置き、そして、己の懐から徐に紙と筆を出す。
その筆は不思議な形をしていて、セイが今まで見るような毛筆の筆とは違い、先が尖っている物だった。
「筆ですか・・・?」
「万年筆です」
「マンネンヒツ?」
「筆の代わりですよ。筆よりも先が細くて、すらすらと滑る様に字が書けるから愛用しているんです。墨も硯も要りませんしね」
父の仕事を手伝っていた時よりも、体を動かす事を中心に生活しているセイは自然と文字を書く事から離れてしまっていたが、それでもその見た事の無い筆はとても書きやすそうだった。
彼は俯き、眉間に皺を寄せ、少し考え込むと、紙に何かを書き留める。そして終わったかと思うと、空を見上げ、ふと表情を柔らかくし、笑顔を見せると、また視線を紙に戻し、楽しそうに何かを書き綴っていく。
その行動一つ一つがセイにとって物珍しく、不思議な行動でもあり、けれどそこに微笑ましさを感じ、彼女はふっと笑ってしまう。その彼女の様子に気付いた彼は振り返り首を傾げる。
「ん?どうしました?」
「あっ!いいえ。何を書いていらしゃるんですか?俳句?」
「そうですねぇ・・・。敢えて言うなら日記です」
「日記?」
セイの問いに彼はコクンと頷くと、開いていた紙を閉じ、笑って見せた。
「ええ。旅をして、出会った事、出会った物を書き綴っていく。その時、その場所で感じた事、心に触れた事、ありのままに感情を言葉にして残していくんです。時には物語調にして、歌にする事もあります。そうして知らない土地、知らない習慣、知らない言葉、自分の中の未知の部分を埋めていくんです」
彼はとても楽しそうに語る。
だからセイも自然と楽しくなった。
「思い出すと笑っちゃう事、自分の中で自分でも知らなかった感情、色んなものが見えてくるんです。だから私、書き綴っている間面白い顔していたでしょう?」
「はい」
言ってセイは、はっと口を押さえる。しかし彼にとってはそれさえも面白いのか笑みを浮かべる。
「今度、俳句や歌を作っている人の表情を見てみて下さい。面白いですよ」
副長も同じようにくるくる表情を変えながら俳句を読むのだろうか。セイはそんな彼を想像し、少し可愛いかも、と笑みが浮かべる。
「色んな場所って、日本中を旅しているんですか?」
その問いに、彼はまた笑って答えた。
「いいえ。私は世界を旅しています」