13.不器用な想い3

むっとした空気が僅か八畳程度の部屋の中に広がる。人の熱気とそして血の匂い。
僅かに流れる消毒液の臭いが鼻に突いた。
悲鳴と泣き声、唸り声に怒声。
地獄とも言える様な、己の命を脅かされる程の恐怖を目の当たりにした人間の果ての行動がその場で繰り広げられていた。
「清三郎!遅ぇぞっ!」
一歩部屋に入り、目の前に突きつけられる光景に一瞬背筋を凍らせて立ち止まったセイに容赦なく怒りがぶつけられる。
そして同時に注がれる視線。
そこには怒り、憎しみ、悲しみしかない。
セイは視線に怯みそうになる己を抑え、声を投げ付けられた人物に歩み寄った。
「申し訳ありませんでした。松本先生」
松本先生こと松本良順は鼻を鳴らすと、「報告は」と確認を取る。
「局長に報告しました。必要な物資は後で手配してくれるそうです」
「後からじゃ遅せぇっ!今すぐ持ってこい!手も足りねーんだよ!これだけの人数俺とお前で捌ききれる訳ねぇだろっ!」
そう言って今だセイに冷たい視線を注ぐ大衆を指差す。
「南部先生もすぐに来てくださいます。…申し訳ありません」
セイは目を伏せると、それだけを呟く。
落ち込む彼女の姿に、良順は小さく溜息を付くと、自分の周りにいる人間を見回した。
刀傷で今にも事切れそうな者、血を流し続け、畳を血で染める者。廊下には更に想像出来ない程の数の人間が彼の治療を待っている。
新選組に対する憎悪を抱いて。

「民衆が襲われた」
総司の声掛けにより幹部たち全員が招集され、門前の騒ぎで既に何かしらの気配を読み取っていた彼らに近藤は開口一番にそれを口にした。
その場にいる近藤、土方を覗く全員が息を飲む。
「事の始めは、私自身が用を託けた隊士を浪士が襲った事からだ。背後から斬りかかったらしい。だが隊士はそれをかわすと、暫く打ち合いが続いた。…までは良かったんだが…仲間がいたらしく物陰に隠れていた奴らが出て来る事で人数が増え…何を思ったか遠巻きに見ていた民衆を斬り始めた」
その言葉に一同唖然とする。
「まるで思い通りに行かなかった憂さ晴らしをするように女子供関係なく隊士を無視して斬り始めたそうだ。しかも新選組の名を語ってな」
「なっ」
原田が驚きの余りに思わず声を上げる。
「町の人間には我らが新選組か相手がそうなのかなんて見分けは付かない。腹立たしい手口だが、その現場を見ていた民の心情など容易に想像できる」
そう言って近藤は悔しそうに唇を噛んだ。
「起こった事はどうしようもねぇ。元々俺たちの印象なんていいもんじゃねーんだからな。取り敢えずその場を収める為に隊士たちは敵を斬りざるを得なかった。腕はそれ程でもなかったらしく全員を斬る事は出来たらしいが、奴らの裏が分らねぇ。悪い噂は良い噂より早く広がるがたった一度きりの事で印象付ける事なんてできねぇと考えるだろう。恐らく又同じ様な手口で襲ってくるはずだ。計画的なものなのか衝動的なものなのかを見極める必要もある。巡察の際に注意してくれ。そして少人数での行動は暫く隊士たちにはさせるな」
土方の勧告に「応!」と声が上がる。
「では巡察は夜からいつも通り行ってくれ」
近藤の締めの言葉幹部たちは立ち上がり、其々部屋を出て行こうとする。
「そういえば、襲われたのは何番隊の隊士?」
藤堂が思い出したように近藤に問いかけると、そういえば、と出て行こうとしていた数人の人間も振り返る。
彼らは知らなかった。近藤に別の用件を申し付けられていたので、先刻まで屯所を離れており、屯所内に大きくならずとも騒動が起こっていたのを。
「---神谷と中村だ」
「なっ!んだよ!その組み合わせ!」
十番隊が関わっている事とその人物を知ると、原田は目を見開く。
「そうだ!神谷は無事だったのか!?」
永倉が呼応するように声を上げた。
「ああ。神谷は無傷。中村は深手を負ったが、命に別状は無いそうだ」
近藤が答えると、周囲から安堵の息が漏れる。
中村が斬られたと告げたが、処断する様子が無いことから後ろ傷で無かった事は想像ができ、命に別状が無い以上、それ以上の事を問う事は誰もしなかった。
斬り合う事が彼らの仕事なのだから、それ以上知る必要は彼らには無い。
「しっかし元々中村と神谷を一緒にするのは良くない事分ってるじゃろ。どうしてまた」
「他に人がいなかったんだ。仕方ないだろ。神谷に頼もうとしたらそこに中村が偶々居合わせたんだよ」
井上の問いに土方は冷静に答えるが、隣に座った総司の眉が僅かに動いたのを見逃さなかった。
「それで今、その二人は?」
「法眼のところだ。今、二人には別の任に就いてもらっている」
「別の任とは?」
永倉が少し声を潜めて問うと、近藤は目を閉じ、神妙な面持ちで「今はまだ言えない」とだけ告げた。
「幹部にも?」
藤堂が続け問うと、近藤の回答はやはり否であった。
「ま。何かしら理由はあんだろ。その内教えてくれるんだろ。それで、神谷と中村のお帰りの予定は?」
「未定だ」
重くなった空気を弾き飛ばすように、声質を上げて場を和ます原田に、土方は端的に答える。やはりかと思いながらも、原田はぽりぽりと頬を掻いた。
「そーかい。それじゃあ総司は暫くの間つまんないだろうなぁ」
「何でそこで私の名前が挙がるんですか!?」
眉間に皺を寄せたままの総司に声が掛かると、彼は慌てて原田に抗議する。
「いっつも世話をしてくれる神谷がいないんだぜ」
「世話をしているのは私です!」
「何言ってんだよ。甘味屋に連れて行くわ、稽古に付き合わせるわ、四六時中金魚の糞みたいに付いて回ってるくせに」
「失礼ですね!あの人が甘味を食べたそーにしているから連れて行ってあげてるんです!」
誰がどう聞いても原田の意見が正当である事は分りきっているのに、ムキになって反論する総司に周囲から笑い声が上がる。
「お前が神谷にべったりなのは分った」
「違いますって!」
溜息を吐きながら言う土方に、総司は透かさず反論する。
「だからと言って今後暫くは神谷に会いに法眼の所に行くなよ」
突然釘を刺す土方の言葉に、和んでいた空気が一気に凍りつく。
引き攣った笑顔のまま総司は静かに問う。
「---」
--為に、言葉を発しようとしたが、彼を見据える土方の視線に、そのまま息を止めた。
先程と全く同じやり取りを行おうとしている事に気が付いたからだ。
彼がその事に気付いた事を察した土方は、反論しない彼を見据え、更に続ける。
「中村、神谷両名とも、その任が開けるまで、松本法眼の元へ出入りすることを隊の全員に禁ずる」
「--なっ!」
その言葉に二人のやり取りを見守っていた他の幹部たちも声を上げるが、土方は遮る。
「隊命だ」
その言葉は、今将に反論しようとしていた男たちを抑えるのに、何よりもの重さがあった。
沈黙が部屋の中に充満する。
「以上。解散!」
近藤の声がいつも以上に大きく響いた。

隊命と言われた以上、それ以上の行動を起こす事は出来ない。
幹部らは決して局長、副長と据えた近藤と土方を主としている訳ではなく、あくまで同志であったとしても彼らをこの隊の長と任せた以上、彼らが決断したのであれば、底には何らかの理由があって判断したのだと信じざるを得ない。荒くれ者たちが集まるこの新撰組は信頼関係の上で成り立っているのだから。
幹部たちが渋々腰を上げ、部屋を去った後、近藤と土方、そして総司だけがその部屋に残っていた。
半ば予想していた通りの総司の行動に土方は溜息を吐く。
「一つ聞いてもいいですか?」
しんと静まり返り、凛とした緊張感の走る部屋にやけに大きく総司の声が響く。
「神谷さんと---中村さんにこの任は重くないですか?」
「お前にはどういう内容かは話していないはずだが?」
ぴくりと眉を上げ、土方は総司を見据える。
「小柄な神谷さんとまだ入隊して然程経っていない中村さんに任せられるような内容なんですか?」
その言葉に含むのは、仕事を心配するよりも、圧倒的にセイを心配する気持ちが上回っているのが明確だった。
「神谷君と中村君に相応だと考え、今回の仕事を任せたんだが」
近藤の言葉に総司の表情が僅かながらに揺らぐ。
近藤の信頼を受けてこその仕事なら、総司にはこれ以上何も言う事は出来ない。先程も問いかけた質問を繰り返したのは、自分の中で納得するよう念を押す為。近藤を信じてここにいるのだから、彼に不審を抱く事はありえない。
それでも総司は問わずにはいられなかった。
その衝動は何処からくるものか---。
言ってから、自分が近藤を信用していないような暴言を吐いた事に気が付き、総司は俯く。
「神谷君は大丈夫だよ」
そんな総司の小さな葛藤を知って知らずか、掛けられる近藤の暖かい労りの言葉に、彼は頬を緩める。
「大体なぁ。てめぇ、神谷をもっと信頼してやれよ!あいつはあれで結構…お前なんかよりも役に立つ時だってあるんだからな!」
人を褒める事を滅多にしない土方が、総司に励ましと、セイに向ける信頼を言葉を口にする事に、総司は少し驚くが、自然と口の端が上がる。
「だって心配なんですもん。何かやらかしそうで」
ぷぅと膨れ、いつもの表情を取り戻した総司に、近藤は安心して胸を撫で下ろす。
「じゃあ私も戻りますね」
部屋に入って来た時よりも足取り軽く出て行く総司の背を見つめ、--彼が神谷を本当の弟のように可愛がっているのは近藤土方両名とも分っている事だったが、それにしても --。と顔を見合わせると、心中複雑な二人は溜息を零した。

「私が傍にいないと」
閉じた障子の向こうで、総司はぽつりと呟いた。