噂と言うものは直ぐに広まる。秘密事は何処からか必ず漏れるものだ。
「聞いたか?神谷の奴謹慎だってよ」
「どうしてそんな事になったんだ?」
「俺が聞いた話だと神谷が仕事を疎かにしたとか」
「え!?でもあいつ人の仕事まで元々やってただろ。必ず自分仕事だけ終わらせていったぞ」
「それを快く思わない連中が・・・」
「いや。違うな。神谷が病気を患っているらしい。いつも無理する性格だから、それを沖田先生が命令という形で抑えたという話だぞ」
「どれでもないな。これが一番確実な情報だ。最近神谷、茶屋で男と会っていると噂になっていただろう?沖田先生がそれに悋気して神谷を閉じ込めたらしいぞ」
噂には大抵尾鰭が付いて、真実が見えてこないものである。
巡察を終えた斉藤は、好き勝手に噂をする彼らを横目に見ながら、縁側を歩いていた。
「随分と色んな噂が立っているぞ」
彼の歩く先で刀を手入れしていた総司は、声の主を見上げると小さく苦笑し、視線をまた刀に戻すと、止めていた手を再開する。
「好きに思われて構いませんよ」
「何だかんだと言って、清三郎は目立つからな」
そう言って斉藤は手入れを続ける総司の隣に座る。
彼はそれ以上の言葉を続ける事も無く、何気無しに空を見上げると、ほうと溜息を吐いた。
「有難う。斎藤さん」
総司は斉藤を見ずに、手を動かしたまま、小さく礼を告げた。
彼に聞えたかどうか確認する必要は無い。
聞えていなければそれでも良いと思った。
総司に外出禁止を言われたセイは隊士部屋に戻るとしたところを、同じ一番隊隊士に呼び止められた。
「神谷の部屋・・・。今日から向こうの奥の部屋だってよ」
総司から伝言を受けたその隊士は言い辛そうに告げると、指で彼らの今いる廊下の奥を指し示す。
そこは、一個の隊が大きい新選組の隊士が寝場所にするには手狭な間取りで、改装するにも不便な場所であり、結局そのまま何も使われない一室として放置されている部屋だった。
奥にはその部屋しかないから、当然の如く人の通りも少ない。
完全に隔離された空間と言えた。
「布団や行李はもう運んであるから・・・。何をやったんだ?お前」
そんな事こちらが聞きたいくらいだ。
セイは腹の奥に溜まる明らかな苛立ちを抑え、隊士に「有難う」と短く礼を言うと、ずんずんと奥に入っていく。
着いた部屋の障子を開くと、見覚えのある一組の布団と行李。
いつもの彼女が戻る部屋の風景と余りに違い。悲壮感が胸に突き刺さる。
後ろ手で障子を閉めると、溜まっていた想い全てと共に涙が溢れてきた。
私が何をしたと言うのだ。
ただ、彼と出会って。
彼とお茶を飲んで、話をしただけだと言うのに。
己の行動に不審な点など、何一つ無い。
それなのに、受けるこの仕打ちの酷さに、悔しさでセイは涙を抑えることが出来ない。
泣いて。泣いて。泣き続けた。
そうして闇が深まり、夜が訪れる。
どの位泣いたのだろうか。すっかり枯れた喉が水を欲しいと訴えている事に気付き、セイは立ち上がると、障子を開ける。
ぎょっとした。
食事が目の前の廊下に、お膳に乗せられ、用意されているのだ。
部屋からも出るなと言うことか。
すっかり腫れた目からまた涙が零れそうになるのを抑えると、セイはお膳を部屋の中に入れた。
静かに箸に手を付け、ご飯を口の中に入れる。
ご飯の甘さが口の中に広がり、セイの心を少しだけ癒した。
『しっかりと食べて、噛んで、飲んで、そして自分を満たすんです。そうしたら少しだけ心が軽くなる』
彼と昼食を取りながら交わした言葉を思い出す。
その日は風が吹いていた。
空は青く、太陽が見えていると言うのに、風は強く吹き付け、路に店を出している商人たちを困らせていた。
かの言う二人も、その風の強さに前に進む事も儘ならず、早々に外を見て回る事を諦め、近くの食事処に入った。
「腹が満たされなければ、どんな者でも心に余裕は出てきませんからね」
そのままのんびり過ごそうと、店の二階の一室を借りて、出された蕎麦をすすっていた彼は、口に入っている物を頬張ると、満足気に言った。
セイは彼の何処までも底抜けた幸せそうな笑顔に苦笑した事を覚えている。
そうやって細やかな会話を楽しみながら、食事を終えると、強い風は吹き付けても、青空の中燦燦と照らす太陽が室内を暖め、安らかな微睡みを与える。
僅かに開いた障子の向こうから風が吹きつけてきた。
セイは寝転がり、そして、その透き間から覗く空を見上げ、隣で紙と筆を手に取り、書き綴る彼を見詰めながら、うとうとしていた。
「満たされれば、心に余裕が生まれてくる。そして自分の周囲をぐるりと見渡すんです。そうすると視野が広がって、今まで見えなかったものが見えてくるんです。それがとても私の心を豊かにしてくれます」
そのままセイは寝入ってしまった。
セイは進めていた箸を止める。
そうして、暫し動作を止めると、今度は突然勢い良く食べ始めた。
口に入るだけ詰め込むように頬張っていく。そして、一気に飲み込むと、庭に繋がる閉じたままの障子に近付き、静かに開けた。
空には月が浮かんでいる。
微かに聞える虫の音と、風の吹く音がセイの鼓膜を優しく震わす。
彼女はその場に正座すると、静かに目を閉じた。
私は何時の間にこんなにも彼に感化されていたのだろう。
笑う彼を思い出すと苦笑してしまう。
彼に出会って得たもの。
出会いと言うものは、その人間にとっていつも良いもの、悪いものを与えてくれる。
選び取るのは自分自身。
彼は彼女にーーーーー与えてくれた。
『貴方は武士でしょう』
セイは武士なのだ。
上司の決定にセイは従わなくてはならない。
総司の歪んだ表情を思い出す。
どんな理由がそこにあろうとも、彼女は問い質す事をしてはならない。
『理由を教えて頂けないのに、屯所に出る事を禁じるだなんで納得出来ません』
総司に先刻言い放った己の言葉にぞっとする。
きっと彼に言わせれば、そこには人間としての尊厳が無いと言われてしまうだろう。どんな行動にも理由があり、行動するからには自己決断をして行動するのだ。それは人間として当然の権利だ。
その通りであろう。しかしセイはそれに賛同は出来ない。してはならないのだ。
彼女は武士だから。
彼の言い方を借りるのなら、それはセイの意思で決めたのだ。
上司の決定に従うと。
総司を信じているから。
彼がどんな理由で彼女をこんな状況に置いたのかは分からない。けれどきっと彼にも理由があって、彼がセイの為を想ってこんな事をしているのだ。
だからセイは従う。
そう決めると、心が少し軽くなった気がした。
『それではまた』
約束を破ってしまったな。
セイは自嘲の笑みを零した。