9.修羅と鬼神4

屋敷は静かだった。
夕闇が降り、蒼かった空は茜色から、緋色、赤褐色へと鈍い色へ彩を変えていく。
闇が深まるにつれ、畳の上に濃く焼き付いていた影は漆黒へと同化していった。
窓の透き間から抜ける穏やかな大気の流れに対し、何時切れてもおかしくない位張り詰めた糸が常にあるような緊張感が屋敷の一室を包み込む。
「さて。これからどうするかな」
猪口を片手に近藤は閉められた窓の外に視線を向ける。
「だからあんたはどうして屯所に帰らねーんだ」
土方は隣で溜息を落とす。
「平隊士だって、屯所とここの二箇所を固めるとなると大変だろう。三人一緒にいれば楽じゃないか」
「・・・そういう問題か」
「トシと総司の二人だけを囮にして、のんびりと構えるつもりは私には無いよ」
その言葉に、土方は言葉を詰まらせるしかなかった。
彼がやろうとしていた事を近藤はとっくに分かっているのだ。分かっているのなら、尚更大将は大将らしく一歩後ろで退がって見守ってくれれば良いものをと思うのだが、彼がそういう性分でない事は重々承知している。他者を己の前に差し出す位なら、己が先頭に立つだろう。
その真っ直ぐさが気に入っている反面、こうした時に困るのだと、改めて溜息を吐く。
彼らは修羅場から抜け出した後、隊士の案内で屯所へ帰営しようとしていた。しかしその道中何があるか分からない。しかも今回は何処で敵が動いているのか未だ正確な情報を掴めていない。先を読まれている可能性もある為、直ぐに屯所へ戻る事を止めた。一旦他の場所へ身を隠し、相手がどう出るのかを見る事にしたのだ。
土方が先に屯所に戻るか、近藤を隠す場所に共にするか迷った。何処か身を隠す場所はないかと思案していたところに、隊士がこの屋敷を提案した。
この屋敷の持ち主は今は別宅に一時的に移っており、今は使用人がいるだけなので、使用すれば良い、と。
情報の出所を突き止めると、先程まで彼らがいた茶屋の主人だと言う。彼らが何処にも行く様子も無いのに見かねて、一刻も早く茶屋から追い出す為に提案したと言う。
表向きは。
新選組の名が通るようになってきたとは言え、未だ今日では好意的には見られていない。追い出す様に提案したと屋敷にしては、余りにも、好条件過ぎるのだ。
主のいない。使用人だけの屋敷。
裏を返せば、必要の無い屋敷。そして、替えの利く使用人。
何かある。そう踏んだ土方は相手の出方に任せ、態とそれに乗る事に決めた。
予定の頭数の中に、近藤は入っていなかったが。
また一つ溜息を吐き、土方は既に温くなっていた茶に手を伸ばした。
ここの使用人たちは、彼らが訪れると、茶を出し、主がいない事に対し侘びを告げると、早々に奥に下がってしまった。
さて。どう出るか。
土方は、含み笑いを浮かべると、これから起こるであろう出来事の予測を立てる。
隊士たちをあからさまに配置しても相手が出てこない可能性もある為、ある程度距離を置いて配置していた。それでも何かが起こった時には直ぐに対処できる手筈は整っている。
土方は深く息を吸い、ゆっくりと吐くと周囲の気配を探る。ーーーーすると、直ぐ隣で異様な殺気を放つ者がいた。
「オラ!」
ごん。と鈍い音を立てて、土方は総司の頭を力加減無しに殴りつける。
「いったいなぁ!何するんですか!土方さん!」
涙目になりながら総司は予告も無しに打たれずきずきと痛む頭を抑えて抗議をする。
「何すんですかじゃねぇっ!お前が馬鹿みたいに殺気を振り撒くから、周りの気配まで全部打ち消されるじゃねーか!」
「そんなの知りませんよぉっ!馬鹿みたいにって失礼ですよ!」
「馬鹿だろ!神谷は無事だって言ってたじゃねーか!何いつまで怒ってやがんだ!」
「怒ってなんかいませんよ。それに神谷さんとは関係ありません!」
それの何処が怒ってないだっ!と土方はわなわなと肩を震わせるのを尻目に、総司は土方から視線を逸らし、ぷくっと膨れる。
「まあまあ。神谷君の腕の傷は大した事ないそうだし。良かったじゃないか。なあ。総司」
「近藤先生まで!どうして神谷さんの話を私に振るんですか!」
「テメェ、自分のツラ見てから言いやがれ!神谷の負傷を聞いてから、さっきの茶屋を出てからこの屋敷に移る時までずっと不機嫌丸出しのツラしやがって!神谷の事じゃなきゃ何だって言うんだ!」
「・・・神谷さんは武士です」
「あぁ?」
突然声のトーンを下げ、まるで己に言い聞かせるように呟く総司に、土方はぴくりと眉を動かす。
「神谷さんは武士です。傷を負うことだって承知で新選組にいるんです。あの人がそう覚悟しているのに、どうしてそれを私が心配しなければならないんですか。何時斬られるかも知れない。そんな事は分かりきっているんです」
「総司」
近藤が口を開く。
まるで総司が自分で自分を戒める事で、彼自身自らを傷つけているかの様に見えたからだ。
近藤が声を発そうとした瞬間、屋敷が静かになる。
音がする、しないの静けさではない。空気が止まる静けさ。
それは本日二度目の緊迫感。
「来たか」
土方は静かに呟くと、自然な動作で己の腰にある刀の柄に手を掛ける。
バァン!
激しい衝撃音と共にこの部屋の周囲を囲んでいた襖が蹴破られる。廊下から国の判別の付かない浪士達がぞろぞろと入り込んで来た。
「近藤勇、土方歳三、沖田総司、覚悟!」
最初に乗り込んで来た男が叫ぶよりも早く、彼は斬り捨てられていた。総司の手によって。
乗り込んで来たほかの浪士たちも、それぞれが獲物に向かって刀を振り下ろすよりも先に近藤、土方によって既に絶命していた。
しかし、後続が次から次に襲い掛かってきて、途切れる事は無い。
「・・・随分数が多いな・・・・。平隊士たちはどうした?」
土方は浪士に刀を振り下ろし、あるいは薙ぎ続けながら呟く。
「それにこの数・・・異常ではないか?これだけの数、いくら屋敷が広いからと言って、乗り込んでくるにしても数が多すぎる」
近藤は土方の呟きを受け、返す。しかし答えは見つからない。
「要は切り捨てていけば良いんですよね」
総司は気に留めた様子も無く、襲い掛かる浪士を藁で作った人形か何かのように、ただ黙々と斬り捨て続けた。
その中で土方は一人焦りを感じ始める。
この人数を斬り捨てて、後どれ位の人数を斬れば良いんだ?
そして何故この事態に隊士たちは気づかない?
援軍が来るまで、どのくらい待てばいい?
果たしてこの事態に気づいているのか?
このままでは。
ぞくりと背筋を嫌な悪寒が走り、身震いをしながら土方が、近藤を見ると、彼も土方と同様の事を考え始めていたらしく、目を合わせるとその瞳は揺らいでいた。しかし決して曇る事は無い。
土方は近藤の視線を合図に、この状況から打破する方法に思考を巡らせ始めていた。