何処か真剣で、何処か浮き足立っている総司の背中をセイは必死で追った。
彼女の前を歩きながら、彼女の歩調に合わせて歩いてくれる総司の心遣いが嬉しかった。
こんな事くらいでかも知れないが、まだ女子として自分を扱ってくれているのだと思うと、嬉しくて堪らない。
けれど一方で、こんな風に他の女子たちにも接しているのだと思うと、自分だけではないのだと思うと、寂しくて堪らなかった。
彼は自分だけの人じゃない。
ちくちくと棘で刺されるような痛みがセイを襲う。
そして一方で。
そういう私も斎藤に体を許そうとしたではないか。
そう思うと、あの日彼に触れられた場所がじわじわと痛みと共に全身に広がっていくように感じた。
初めに浮気をしていたのは総司なのに、自分が彼を差し置いて浮気をしているような罪悪感が胸を詰らせる。
落ち込んでいく気持ちのまま総司の後を付いていったが、彼が進んでいる道が何処へ向かっているのかに気付いたセイは、はたと足を止め、顔を上げた。
「あの…沖田先生…?」
渇く喉で掠れながら声を出し、前へ進む総司を呼び止める。
「いいから。付いてきて下さい」
浮き足立っていた先刻とは打って変わって、固い声が返ってきた事にセイはびくりと肩を震わせるが、その声は彼女がここで引き返す事を許さず、彼女は更に沈んだ気持ちのまま彼の後を付いていくしかなかった。
辿り着いたのは呉服屋。
着いて、やはり一目で分かった。
あの、総司と噂になっている奥様がいる店だ。
とうとう浮気相手本人に直接会わせるつもりか。
会ってどうするというのだ。浮気相手と結縁でもすると言うのか。
いや。相手は既に嫁入りしているのだから、浮気を公認の上、セイを嫁に貰いたいとでも言うのだろうか。
普通の武家なら主人に妾の一人や二人いても、英雄色を好むと言うし、家を守るのは正妻の仕事だから何も言わないのだろうけれど。
噂を聞いてから何度も何度も想像してみたけれど、何度考えても、自分には耐えられない。それがセイの結論だった。
総司が自分以外にも自分と同じように女子に触れるなど許せない。だから彼と結縁せずに別れると決めたのだ。
やはりこのまま行けない。と、踵を返し、来た道を戻ろうとするセイの腕を総司は素早く掴んだ。
またびくりとセイの体が恐怖で跳ねる。
しかし、総司は気に止めず、その手を離す事は無かった。
「帰らないでください」
「でもっ!」
「いいから」
総司は鋭い眼差しで彼女の意志を押さえつけると、そのまま店の中へ震える彼女の手を引いたまま入っていった。
「おこしやす。…あら。沖田センセ」
出迎えたのは、やはりこの店の奥方つまり女将で、総司の顔を見た瞬間嬉しそうに笑った。
総司よりも幾つか年上なのに、綻ばせた笑顔が咲いたばかりの初々しい花のようで、何処かあどけなく、それでいてセイとは全く違った大人の女性らしい品のある風格で、セイは眩しくて見ていられず目を伏せた。
「こんにちは。女将さん」
嬉しそうに明るく挨拶を返す総司がいっそ憎くなってくる。
もう、彼は自分と縁が切れたはずなのに、何故、今になってまだ、二人のこんな楽しげな姿を見せ付けられなければならないのだ。
「今日は…その娘さんがセンセの…?」
「はい。もうある程度お仕立ても済んでますよね?最後に本人に見てもらおうと思って」
「それならもう隠し事にせんでえぇのね?」
「はい」
どうやらセイが想像していた話と違うようだと顔を上げてみると、女将は彼女を見つめ、にこりと微笑んだ。
「ほんに、綺麗なお嫁様ですこと。どおりでセンセがいつも惚気る訳ですわぁ」
「そうでしょう。きっとあの着物もセイちゃんにすっごく似合うと思うんです!」
頬を染めて総司はセイが褒められた事を我が事のように嬉しそうにはにかむと、居ても立ってもいられない風に下駄を脱ぎ捨てると足早に部屋の中へ入っていく。
促されるままにセイも草履を脱ぎ、誘われるがまま数ある部屋の一室へ入った。
そこに掛けられていたのは一枚の白い着物。背には見事に咲き誇った桜の刺繍があしらわれていた。
「…これ…」
それは何処からどう見ても白無垢。
桜の刺繍が入っているものは初めて見たけれど、間違いなく嫁入りする女子が祝言の際に纏うものだ。
「セイちゃんには絶対桜だと思ったんです!見た瞬間これだって!」
総司が熱く語る横で、女将はその白無垢を衣文掛けから下ろし、セイに肩から羽織らせてやる。
「沖田センセの目は間違いないですえ。こんなにこの着物が似合ぅ女子いらはりません」
「……」
セイは女将を振り返り、それから総司を見上げた。
総司は今までに無く頬を緩ませ、見上げてくるセイに照れたように視線を彷徨わせた。
「ほら。お婿はんも余りの綺麗さに真っ直ぐ見られへんでいるえ」
「余計な事言わないでくださいよっ」
図星だった総司は顔を真っ赤にすると、恥ずかしさを誤魔化すように女将に突っかかった。
セイの胸に熱いものが込み上げてくる。
「ほらほら。祝言までまだ汚せないんですから。泣いちゃダメですよ」
いつの間にかセイの目尻から零れ、頬を伝う涙を総司はそっと自身の着物で拭う。
しかし、今度は逃げる事無く、もう先刻のように総司に触れられる事で怖がる事はなくなっていた。
唇を噛み締め、涙を零し続けるセイにやれやれと溜息を吐き、総司は彼女の手を取ると、「また来ます」と女将に言い置いて屋敷を出る。
総司は一軒一軒店を回った。
小物屋でセイに似合う櫛を。
料亭で祝言に用意する料理を。酒屋で祝杯の酒を。
それぞれ一つ一つをセイに見せ、選ぶまでの苦労を、と時に店の者に笑われながら、時に惚気ながら語ってくれた。
そして他に、セイも知らなかった、二人がこれから一緒に暮らす為の道具を揃える為に総司が事前に買い付けていた其々の道具屋へも行き、彼が必要だろうと思っていたもの、そしてその中に、これだけはどれだけ値が張ろうと譲れないと選んだ、一対の湯飲みと、夫婦茶碗を見せられた。
どちらも桜がさり気無くあしらわれ豪華過ぎず、質素過ぎず、ふと優しい気持ちになれる細工のもの。
それは二人がどうありたいと願うか、総司の心を映しているようだった。
そうして店を回り、一つ一つの思い入れを語る総司は嬉しそうで、これからのセイとの生活を楽しみにしている事も、未来を夢見ている事も、どれだけセイを大切に思っているかも伝わってきた。
そうやって時間を掛けて周り、最後に一つの屋敷に辿り着いた。
その前にやはり総司と噂になっていた屋敷の娘の元へ出向いたが、この屋敷の鍵だけを受け取ると、総司はセイと二人で真っ直ぐ向かい、辿り着いた屋敷の中に彼女を招き入れた。
事前に入る事を知らせていたのだろう。木戸は開け放たれており、換気が十分になされ、昼を過ぎて少し柔らかくなった日差しが部屋の中に差込み、畳に柔らかな影を作っていた。
小振りだけれど長屋ではなく、一軒屋。
屯所からも程よく近く、それでいて、富永診療所からも然程遠くなく、通える距離。
家や庭の手入れも行き届いており、簡単な間取りではあったが、土間と贅沢にも風呂が備え付けてあった。
「…沖田先生…ここ…」
「二人と…いつか生まれてくる子どもの為の新居です」
口に出すのがこそばゆそうに笑い、そう囁く総司に、セイは今度こそ大粒の涙を零し、嗚咽し始めた。
今までの浮気だと噂されていた総司の言動も行動も何もかも全てがセイと二人の為のものだったと気付かされたからだ。
あんなに激しく非難し、問い詰め、追い込んだのに、総司はそれを全て真っ直ぐ受け止めてくれた。
一つ一つ丁寧に誤解していた理由を取り除いて、セイの頑なだった心を解して、言葉を尽くして、彼女をどれだけ大切に、深く思っているのか、総司は愛情を示してくれたのだ。
総司の己への想いの深さに、彼の優しさに、セイは胸が一杯だった。
「泣かないでください。セイちゃんを驚かそうと思って隠してた私が悪いんです」
少し背を丸め、セイの背に合わせ、覗き込むと困ったように総司は微笑む。
「セイちゃんがお父上からお許しが貰えたって言ったでしょう?だからどうせならセイちゃんが身一つでお嫁さんに来てもらえるように全部揃えてから、セイちゃんをくださいなって改めてご挨拶に行こうと思ったんです」
そう言って彼はセイから視線を外すと、部屋をぐるりと見渡した。
「富永先生には負担を掛けたくないですし。富永さんにもこれからもきっと一杯迷惑を掛けます。大切な妹さんを、一人娘を頂くんですから…って考えたら、私にできることってこれくらいなんですよねぇ」
できる事が少なく、力無い自分を呆れるように溜息を零した総司に、セイはぶんぶんと首を大きく横に振った。
けれど、込み上げる涙と嗚咽を抑える事までは出来ず、声を出そうとするとしゃっくりのように息を飲むことしかできなかった。
「さっき、セイちゃんに会う前に富永さんにも同席してもらって、もう一回今回の事を富永先生に説明して、セイちゃんをお嫁にくださいとお願いしてきました」
逸らした視線を戻し、また真正面から真剣な眼差しで、総司はセイを見つめた。
「セイちゃんが私でいいというのなら、良い、とお許しを頂いてきました」
「二人に一発ずつ殴られましたけど」とおどけて言うと、総司はセイを見据える。
「私はまだ、貴女を抱きしめる資格がありますか?」
総司はその時になって初めて、ずっとセイが隠し続けていた襟元にすっと指を差し込んで開くと、――小さな赤い痕にそっと触れた。