風桜~かぜはな~2-18

斎藤と何があったのか彼が帰った後、頻りに祐馬に尋ねられたが、セイは答えなかった。
日が経つ毎に彼がセイに教訓としてあんな事をしたのか、本当に彼女を望んで抱こうとしたのか分からなくなっていた。
けれど首筋と胸元には幾つかの赤い痣が今も残っている。
誰にも気付かれたくなくて風呂で頻りに擦ってみたり、必死に白粉で隠してみたりしたが、うまく隠れているはずのそれは何かの際にふと、あの時の恐怖と共に痛みが甦ってきて、見えているのではないかと慌ててその部分を隠そうと手で触れる癖が付いてしまった。
鏡を見ると日々薄くなっているはずなのに、いつまでも消えないような気がしてならなかった。
『沖田以外の触れられる事を望まないのなら、今すぐ沖田の元へ走れ。浮気していようが何だろうが、帰る場所はお前だ。お前の一番はセイお前なのだと気付かせればいい』。
そう言われてから、総司に会う機会もあったが、どうしても会う気になれなかった。
自分が望んで斎藤に組み敷かれた訳でもないのに、疚しい事をしたような気持ちになって、顔も見れず、屯所で診察がある日も仕事を終えたら南部の報告が終わるまで祐馬の傍を離れず、それも終わると逃げるように帰った。
その家族である、祐馬さえ、玄庵さえも最近不信の目で見るようになってしまった。
――二人ともあんな風に女子を抱いていたのか。と。
頭の中では男女の営みがどういうものであるか分かっていても、どうしても不快感が拭えずにいた。
「セイちゃん!」
最近ぼーっとする事が多くなり何があったのかと尋ねても答えないセイを見かね、少し休みなさいと玄庵に告げられた彼女は、ぶらぶらと街中を歩いていた。
すぐに思考の渦に落ちるようになっていたセイは仕事中は仕事に集中し何も考えずに済むので、休みなどいらない手伝わせて欲しいと願ったが、玄庵に「人の命を扱う仕事でそんな意識散漫の状態で手伝われては迷惑だ」と普段優しい父にしては珍しく厳しく窘められ、家庭の事なら反論できるが、自覚していただけに仕事に対しての矜持もあった為、そう言われれば何も言えず、大人しく従うしかなかった。
そんな彼女に久し振りの人物から声が掛けられた。
いや。声を聞くの自体は久し振りではない。屯所に行けば、つい耳をそばだててしまうし、巡察で一番隊が近くを通っていると聞けば、つい傍まで足が向いてしまう。
直接声を掛けられたのは久し振りだった。
声を聞くだけで、名を呼ばれるだけで、胸が高鳴る自分が恥ずかしくなってしまう。
きっと顔を見られたら、赤くなっているのに気付かれるだろう自分を予測しながら振り返った。
振り返ると、いつもの笑顔を見せる総司が立っていた。
その姿を見るだけで、彼が自分を見つめているのだと思うだけで、きゅうっと胸が締め付けられる。
「…沖田先生…」
「久し振りに会ってくれた」
嬉しそうに笑う総司にセイは頬を染める。
そしてほっと安堵の息が漏れると同時に、何故か無性に泣きたくなった。
泣いて彼に抱きつきたい衝動に駆られたが、自分はもうそんな事出来る立場ではないのだと己を諭し、ぐっと思い留まると、平静を装って声を絞り出した。
「どうしてこちらに…?」
「富永先生にセイちゃんなら今日はお休みだって聞いて」
「父に…会ったんですか?」
先日有無を言わせず追い返されて以来、全く富永家に寄り付かなくなった総司が、玄庵と話したという事にセイは驚いた。
実際は玄庵と会う前に、近隣の住人が総司が富永家に行く事を阻んでいたのだが、それをセイは知らない。
驚くセイに総司は苦笑する。
「お父上にちゃんと会ってきましたよ。祐馬さんともちゃんと仲直りしてきたし」
玄庵を父上と呼ぶ総司にいつもの笑いを取る為の呼び方とは違う雰囲気に一瞬違和感を感じたが、彼が言葉を続けた事ですぐに霧散した。
「ちょっと付き合ってもらえますか」
「何処に?」
「いいから。いいから」
そう言うと、総司はセイの手を取ろうとする。
しかし、セイは自分より一回り大きい掌が己の手に触れる瞬間、恐怖が彼女を襲い、反射的に差し伸べられた手を払い除けてしまった。
「ご…ごめんなさい」
触れられる瞬間甦ったのは 斎藤に腕を掴まれ組み敷かれた恐怖。
彼は違うのだ。斎藤ではない。
誰よりも愛しく重く人ではないか。
そう分かっていても、体は心は勝手に恐怖に反応してしまう自分が情けなくて涙が出る。
けれど、それよりも己の今取った行動で、総司にだけはあの日起きた事を知られたくなくて、セイは必死に今できる精一杯の笑みを浮かべた。
不審に思われないように。
総司は一瞬不思議そうに眉を顰めたがすぐに笑顔に変わり、彼女の手を取るのを止めると歩き出した。
「とにかく、付いてきてくださいね」
もうとっくに彼には女子として見放されているのに。
きっと知られたって何も感じないのかも知れないのに。
それでも。
彼以外の男に組み敷かれ、触れられたなんて知られたくない。
これ以上総司には嫌われたくない。
その一心でセイは勝手に大きく高鳴る鼓動を抑えて、彼の後を付いていった。