まさかこんな事になると思っていなかった。
セイの思いはそれだけで一杯だった。
自分を押し倒し、見下ろす男が、今まで兄のように慕っていた人物と同一人物だとは思えなかった。
しかし、今あるこの状況も、目の前にいる男の見たことの無い表情も確かに彼の持つ一面なのだ。
己の唇に今将に重ねようとする唇から逃れるように、セイは首を曲がらなくなる限界まで顔を背けた。
今も残る総司の唇の感触。
それを奪われたくはなかった。
触れていいのは総司だけだ。
腕を押さえられて。顔を背けることしか出来ないセイはそうする事で精一杯の必死の抵抗をする。
本当は何処だって触れられたくない。
全て触れていいのは総司だけだ。
そんなセイの願いとは裏腹に覆い被さる気配が一瞬だけたじろいだのを感じたが、真っ直ぐ降りてきて、セイの耳に柔らかい感触が触れる。
ぞくりとした感触にびくりと体を震わせるが、それも気付かれたくないと必死で堪えた。
ここで泣いてしまえば負けだと思ったのだ。
「セイ…」
熱い吐息が直接耳の中に入ってくる。そしてその後ぬるりとしたものが彼女の耳朶をなぞった。
「っ!」
思わず声が出そうになるのを必死で抑える。
じわじわと己のうちからせり上がってきた恐怖が一気にセイの心を染めた。
このまま斎藤に抱かれるのだ。
総司に疑われもしたが。
恋仲になる事がどういう事か知らない訳では無い。
夫婦になるという事がどういう事になるのか知らない訳では無い。
男と女と言うものがどういうものなのか知らない訳では無い。
けれど、祐馬や玄庵はセイが嫁ぐその日まで大切に守ってくれた。
総司は――決して接吻以上を求める事は無かった。
時折何処か困った表情を見せる事もあったし、触れるだけの口付けが何処かもどかしそうだったけれど、それ以上求められる事は無かった。
今なら分かる。
総司だって男なのだ。
きっとこんな風にセイに触れたかったのかも知れない。
そして、彼にはその機会を与える事無く、斎藤に全て奪われてしまうのかと思うと、胸が痛かった。
「セイ…もっと俺に身を委ねろ…」
優しく熱く求める声は恐怖を助長させる。
唇に触れる事を諦め、首筋を伝う下がじわりじわりとセイの身の内に潜む女子の部分を開こうとする。
きっと総司ならこんな風にしない。
もっと優しく触れてくれる。
優しい人だから。
セイを思って、セイを気遣って、セイが怯えないように触れてくる。
己の女子の部分を初めて触れさせるなら総司が良かった。
直接肌を触れさせるのも。
男女として交わるのなら。
「…っつ!」
首筋にちくりとした痛みを感じ、息を飲むと、落ち着かせるためなのか、着物の上から優しく胸を撫でられた。
けれど少しも嬉しくもないし、落ち着きもしない。
ただ触れた場所から己が穢れていく気がした。
あれほどまでに慕っていた斎藤に抱く想いとは自分でも思えない。
酷い。と理性が訴える。
しかし男としての感情を剥き出しにした彼には嫌悪と恐怖しか生まれてこなかった。
結縁するとはこういう事なのだろうか。
武家では、見合いをし、親同士の取り決めでそのまま結縁するのが当たり前だと言う。
初めて会った見知らぬ男に抱かれるのが当たり前。
その人の子を成し、家を守り、家系を繋いでいくのが武家の妻としての勤め。
今でこそ武家では無くなったが、ずっとその矜持を抱いて生きてきた。
武士同士だって師弟関係の絆を深める為に床を共にするのも当たり前だ。
己は武士でありながら女子だと褒められたじゃないか。
今我慢をすればきっと全てうまくいく。
結縁をしようと言ってくれた総司だって、結局こんな女子のくせに武士のように振る舞い、男と同等であろうとする己を見限ったじゃないか。
そんな己を斎藤は望んでくれるのだ。
きっとうまくいく。
「――」
セイの帯を緩め、着物の裾を捲ろうとしたところで、斎藤は手を止めた。
「……」
彼は手を止めると、静止し、じっとセイを見下ろす。
どれくらいの時そうしていたのか分からない。
しかし物音一つないその空間で、セイはただ視線だけを感じるその時は今までのどの時よりも長く感じた。
そして大きく長い溜息を吐く音が響く。
「――結縁するという事はこういう事だ。沖田以外の触れられる事を望まないのなら、今すぐ沖田の元へ走れ。浮気していようが何だろうが、帰る場所はお前だ。お前の一番はせいお前なのだと気付かせればいい」
瞼を固く閉じ続けていたセイは、ふわりと己の上から気配が無くなった事に気付き、目を開くと、横になったままのセイの横で胡坐をかき、背を向けて己の着物を正していた斎藤がいた。
押さえ込まれていた腕が開放され、セイがそろりと起き上がると、斎藤は素早く立ち上がり、階段を降りていく。
――彼の表情は見えなかった。