「お…沖田先生…」
「……なーんです…かぁ…」
死んだ魚のような目をして空を見上げていた総司は後ろから声をかけた相田を振り返った。
「土方副長がお呼びです」
「はーいー」
のらりくらりと緩慢な動作で総司は一歩二歩と歩き始めると、土方の部屋へと向かった。
その姿を相田は心配そうに見つめる事しか出来ず、歯がゆい気持ちで力無く丸まった背中を見送った。
「沖田先生やっぱり復活できないでいるか…」
部屋の中にいた山口が呟く。
「神谷が来ても無視されるし、診察したらすぐ帰っちゃうからな」
総司の後姿を見送る相田の後ろから山口に続きぞろぞろと一番隊士たちは心配を口にし始める。
神谷清三郎が実は富永セイで祐馬の妹である事は一部にだけ知らされている情報だ。
果し合いの時以来、最も総司の傍にいる一番隊隊士たちには奥手の総司とセイの仲を取り持つように極秘に近藤と土方から指示を出されていた。
それ故、巡察の際に富永家の近くを通る際にはそれとなく総司が富永家を立ち寄れるよう時間を調節し、セイが屯所に診察で来る日は総司に持ち込まれる彼自身でなければならない仕事以外、雑多な仕事は全て一番隊の隊士たちが引き受け、二人の時間をからかいに邪魔しようとする輩を時には命がけで防いだ。
命令だけでそこまで尽くさない。それでも二人の仲を守ろうと決めたのは、女子の身であるにも関わらず新選組の為に全力を尽くしてくれているセイが目に見えて総司を想っている事と、野暮天で女子に対して不器用でそれまで関心も見せなかった総司が初めて本気で彼女に惚れているのを知っているからだ。
大切な二人が幸せになってくれるのなら。
「神谷と喧嘩して、八つ当たりかと思うくらい激しい稽古になるってのはあったけど、まさか稽古で腑抜けに鳴るとは思わなかったよなぁ」
「そうそう!あの剣術馬鹿の沖田先生が竹刀を落としてもぼーっとしてるんだぜ!」
信じられないものを見たという口ぶりで一人の隊士が声を上げる。
「落としても『あーおーとーしーまーしーたー』とか言ってぬぼーっと立ち尽くしていたかと思うと、ゆっくりと拾い上げるんだぞ!」
「けど、それでも巡察の時だけはまともなのが救いだよな!」
その言葉に一同が深く頷いた。
そこはやはり一番隊組長であり、隊随一の剣豪。巡察の問いだけはしっかりといつもの冴えた洞察力と剣術を見せていた。
「しかしやはり、ばれたのが痛かったか」
「っていうか、あんな変な噂流したのどいつだよ!」
「沖田先生が浮気なんてするはずないのに」
普段総司の本人は自覚無しの惚気という名の相談を聞かされ続けている隊士たちは、その言葉にまた一同頷き合った。
「ひーじーかーたーさーん」
のそのそと障子を開き、室内に入ってくる総司に、「キビキビ動け!」と土方は一喝する。が、効果は無く、へらりと笑うと、また総司はのそのそと障子を閉じて、土方の前に座った。
「で。富永の家には行ってきたのか?」
「行ってませんよぉ。この間追い返されてから近づけないんですもんー。ご近所の皆さん結託して、私が行こうとすると邪魔するんですよぉ」
自分で言いながら、冷たくあしらわれた時のことを思い出したのか、べそべそと涙声になる総司に『お前は一体幾つだ』と呆れながら土方は長い溜息を吐く。
「だったら屯所に来た時にでも話せばいいだろう」
「ダメなんですっ!祐馬さんがずっと傍にいるし、南部先生が土方さんと話してる時もずっと傍にいて、近付こうとするとセイちゃんは泣き出すし、診察終わったらすぐに帰っちゃうし」
「それで富永は妹を斎藤の嫁にするとか行ってたな。神谷も承諾した、と」
土方は祐馬とセイの判別をし易いように、セイが男装の時の神谷清三郎の名を呼ぶ。本人は『二人とも富永と呼んでたらわからなくなるだろう!』と主張しているが、一方で、男装しているとはいえ本来は女でありながら屯所で正式に医師の助手として招き入れている土方は一隊士の妹ではなく、セイの事を一個人として買っているのだという事を彼を昔からよく知る者は知っていた。
「そうなんです!いつの間にか斎藤さんのお嫁さんになるって決めて!いつの間に斎藤さんを好きになったんですか!」
ばんっと床を叩いて訴える総司に土方はまた溜息を吐く。
「唯の当て付けだと思わねぇのか」
「…当て付け?」
他の男の名前を上げて、惚れた男の悋気を誘うなんて女の常套手段だろうが。と思うが、気付かない総司の奥手っぷりに土方は涙が出そうになる。
「…浮気だと噂されていた本当の理由は話したのか?」
「浮気じゃありません!私はセイちゃん一筋です!」
「…で?」
「…言ってません」
「お前なぁ。てっきりあんな事言うから、既に神谷にも言ってるもんだと思ってたぞ」
土方の言葉に、ぐっと総司は言葉を詰らせた。
「…だって、驚かせたかったんですもん。噂されてたってそんなのセイちゃん信じないと思ってたんですもん…」
「馬鹿だなぁ。お前」
「ばっ…馬鹿って言わないでくださいよぉっ!こんな事になるなんて思わなかったんですよぉ!何でこんな事になってるんですか!?」
もう今にも泣き出しそうな表情で訴える総司に、土方は長い溜息を吐く。
「本気で大事な女なら周りの戯言なんて無視しろ。惚れた女の御託も聞き流せ。無理矢理でも押し倒せ」
「そんな事できませんよぉっ!」
「なら、斎藤に取られてもいいんだな」
「――」
「お前の想像では、もう神谷は斎藤に手を出されてるんだっけか?」
「出されてません!セイちゃんは私だけだって言ってくれました!」
総司は苛立ちを露に、もう一度ばんっと床を叩くと、真っ向から否定する。
しかし土方はそれで引き下がる様子無く、しかも呆れ顔で総司を見た。
「馬鹿か。お前は。あれから何日経ったと思っていやがる」
「…どういう意味ですか?」
「お前に別れを告げたその日に既にお手付きになってるかもしれねーって想像も出来ないのか」