「おぬしの潜在能力と、人間の娘への執着次第」
にっこり微笑む彼の方に、ハクは瞳の色を濃くする。
「我がおぬしを成竜と認めるまで。人間の時でそれが如何程の時を刻むのかは全ておぬしに委ねられている。但し途中で逃げ出す事は認めぬ。これは立派な契約だ」
永遠に近い時を生きるハク。
短い時を生きる千尋。
時の流れが異なる二人が共に生きる為一時でも離れる事は正しい事だろうか、愚かな事だろうか。
「我は変わり者が好きでな。人間のように何かに固執し、執着して生きる者が嫌いではない」
神の世界に於いて何かを切望し、渇望し、望む事はどれ程愚かしい事であっても。
彼にはその汚さを見せろと言うのだ。
それはハクにとって、神である事の誇りを傷つける事。
真に神であったのなら、虚仮にするにも程があり、許される事ではないだろう。
しかし、それは失うものが無い者が言える事。
全てを失った事のあるハクには、誇りよりも、その与えられた機会を逃す事はしない。
徒。
「暫し時間を下さい」
彼はその場で深く叩頭した。
ただ慈しむように、温もりを分け与える様に抱き締めるハクを千尋はいつもの仕草であり、いつもと違う空気を持つハクを不思議に感じていた。
いつもならもっと甘く、甘えて、自分も甘えられるような空気があるのだが、今の彼には寂しさを感じる。
触れて、傍にいるのに、まるで触れられない遠くのものを切望しているような、手に届くのに、彼の中にすっぽりと納まっていない感覚。
そして彼女は思い至る。
もしかして彼は気付いているのかも知れない。
気付いていないとしても感じてしまったのかも知れない。
そう思いながらも、千尋は自分の中での決心を揺るがす事は出来なかった。
今日、ハクに会いに来たのは目的があったから。
寂しいと感じているかも知れない彼を突き放してしまう形になるかも知れないが告げなくてはならない。
互いが互いを必要とし、傍にいる事を望むのは不変なのだから。
「ねぇ。あのね。ハク」
「・・・何だい?千尋」
愛しい千尋の髪を手で掬い、遊ぶハクは背後から彼女を抱き締めながらも、その体勢を向かい合わせに変え、見上げてくる彼女を見下ろす。
緊張しているのか、彼女の手はハクの衣の裾をぎゅっと握っていた。
「もし私が暫く油屋に来れなくなる・・・・って言ったらどうする?」
搾り出すように尋ねた千尋の言葉に、すぐに返ってくる言葉は無い。
やはり反対なのだろう。と、不安ながら彼女が顔を上げると、彼女の予想に反して彼は笑っていた。
「そう言うからには理由があるんだよね。どうしたんだい?」
お互いに離れる事を望まないのは分かっている。
それならば何故、今の彼女は暫しの別れを望むのか、ハクは静かに問いかけた。
「・・・あのね。私英語が好きなの!英語ってね、日本の言葉じゃなくて他の国の言葉なんだけど、私が12歳くらいから学校で勉強を始めて、ずっと興味を持っていたの。勉強をしている内にもっともっと知りたいと思ったの。そうしたら学校の先生が留学先を見つけてくれて、行ってみたらいいって言ってくれたの!」
「うん」
ハクは彼女の話を促すように、ただ頷く。
「海外の人が最近街に多くって、話しかけられるけど、私の覚えている英語じゃ上手く答えられなかったの。ううん。答えたんだけど、教科書のまま答えたのに上手く伝わらなかったの。相手は言葉の分からない国に来て、凄く不安だったはずなのに、私何もしてあげられなかった。教科書と実際に喋るのじゃ全然違うって知ったの。今度同じ様に尋ねられたらきちんと答えたい。ここにも貴方の居場所があるよ。頑張ってって。同じ人間なのに言葉だけの隔たりで遠い存在にしたくない。もっと勉強したいって思ったの」
「----千尋は本当は言葉を通してもっと沢山の事を知りたいんだ」
感情のまま勢いに任せて言い切った事により、酸素が足りず、紅潮した千尋の頬にハクは優しく触れる。
「私と離れても?」
それは彼の口からやっと出た本音。
彼は何時だって、悟ったように、千尋の想いを理解して、彼女の一歩先を既に考えて、彼女を包み込んでくれる。
それは彼女がハクの傍ににいる事を望んでいたから。
彼だけを望んでくれたから。
優しい眼差しの中に射抜くような冷たい視線。
しかし千尋はここで引く訳にはいかない。
「あのね。ハク。私がこの不思議の町に来て、言葉は通じていたけど、お父さんもお母さんも豚になっちゃって、頼る人がいなくて、凄く不安だった。でもねハクがいてくれたから。どんな時もハクが支えてくれたから私頑張れた。ハクの強さを私貰ったの。その私が貰ったものをもっと沢山の人にも分けてあげたい。せめて言葉だけでも通じる事で誰かの力になりたい。力になれるんだって事を誰かにも伝えていきたい」
夢を語る千尋を嬉しく思う反面、ハクにはどうしても後押しの言葉が出ない。
「ハクのお嫁さんになるって事はね、私の中で当たり前のように決まっているの。でもね、私ね、何も持ってない。ハクに甘えっきりで、ハクの傍にいることしか出来ない。きっとハクがいなくなったら私空っぽの人間になっちゃう。そんなのでハクのお嫁さんですって言えないの、私は私だけのものを一杯持っていて、ハクにずっと好きでいて貰える位魅力的なものを一杯持っていて、ハクのお嫁さんですって誇れる自分でいたいの」
その眼差しは己の未来への期待と、己の信念への確固たる確信。
ハクは未だ、己の心が揺れ動くのを感じる。
「どの位の期間?」
「確実に一年。その後は私がまだもっと勉強したいと思えば続けたいから・・・二年間。二年間が区切りにする」
「二年間。千尋にとってその二年間は長くは無いの?」
「ううん。きっと向こうに行って勉強していたらあっと言う間だよ」
「人間の寿命なんてあっという間だ。その内の二年間も千尋は私に会えずに費やしても構わないのか」
嬉しそうに笑う千尋に、ハクは少しの苛立ちを見せる。
彼は少しでも彼女と離れる事を望んでいないのに。
だからこそ自身に迫られた決断をこんなにも悩んでいるというのに。
彼女は暗い表情を見せず、寧ろ嬉しそうに彼に話す。
それが彼には理解出来ない。
彼女の想いも、彼女の意思も、彼をとても魅了する。理解している。しかしどうしても心が納得してくれないのだ。
必死の表情で問うハクに、千尋はにっこりと微笑む。
「あっという間だよ。一杯色んな事勉強して、一杯色んな事感じて、一生懸命生きたい。精一杯磨いた自分で、楽しんで、怒って、笑って、ハクの傍でハクと一緒に自分らしく生きたい。だから二年間なんて、たった二年間だよ。その後の未来を考えたらその為の二年間なんて無駄だなんて思わないよ」
彼女を好きだと思う。
一生懸命己の時間を生きる彼女を愛しいと思う。
今が大切。けれど今に捕らわれず、真っ直ぐ前を見て生きる千尋。
己よりもずっと短命の彼女が言うのだ。
『たった二年間』と。
今よりもずっと幸せな未来を作る為に。
ハクは何十年も、何百年も生きてきたのだから、彼女よりもずっと先の目を持っているはずなのに。
彼女が思う先をいつも先回りをしようとして、包み込もうとするのに。
千尋の方が、ハクよりもずっと真摯に未来と言う先を見据えている。
未熟な自分を彼は自嘲せざるを得ない。
今度こそ、ハクは彼女に心からの笑みを返す事が出来た。