いつかきっと2

袴に直衣。漆黒に染まる生地、裾を縫う金の糸は最高級の位と神の色を示す。
彼の方は少しの違和感も無く、まるで体の一部であるようにそれらを身に纏う。
それでも本来の彼の方の位であれば、もう一段階上級の召し物でも良いであろうに、それを纏うのは、目の前の神の性質故だろうか。
量りかねる彼の方の言葉にハクは眉間に皺を寄せるだけだった。
「元は川の支流の流れの一つだと聞いた」
「ほんの支流の直ぐに潰えてしまった川で御座います」
ハクは恭しく頭を深く下げ、彼の方の問い掛けに答える。
「おぬしは魔法を得ていると聞いた」
ぴくりとハクは眉を動かす。しかし彼の方には変わらぬ態度を見せ、
「僅かばかり」
と、だけ答える。
魔法の根本は、異能力者と精霊や神々時との契約である。
本来得る事の出来ない、時には得るべきではない力を、第三者の助力によって得るものである。
既に現世から消えた名残とは言え、ハクも元は川から生まれた者。
力を司るべき神である者が、他者の力の助力を得て、自力を上げる事は恥ずべき事。
神の中にはそういった者を忌み嫌い、その存在自体を消そうとする者も多い。
高位になればなる程矜持は高い。
彼の方もそういう方なのだろうか。会話だけでは測りかね、だからと言って嘘をついたところで見抜かれるのは目に見えている。
無論ハクもそう易々と消されるつもりは無い。
彼はただ短く、是と答えるばかりだった。
彼の方が、彼の言葉を受け、どう反応を示すのか、暫し沈黙の時が流れる。
沈黙を破ったのは、表情一つ崩さないままだったハクの目の前に座する神の方が先だった。
彼は苦笑すると、先程よりも声質を上げ、優しく、目の前の小さき元神であった竜に語りかける。
「そう威嚇する事は無い。我はおぬしを消すつもりは無い。最初に問うたであろう。『我の元で暫し仕えてみないか』と」
顰めていた緊張感でさえも見抜かれている。恐らくはその先に考えていた事さえも。ハクは胸中で毒づくと、一つ息を落とす。
「面を上げよ。我はおぬしの能力に引かれた。神でありながら、魔法を会得するその能力。謙虚にも能力は僅かばかりと答えたが僅かと言う事は無いだろう。おぬしの性質からしても考え難い。相当に極めているだろう。あの魔女の元で。既に神通力の源は費えてしまっているが、おぬしがもし神のままでいられるのなら何処まで伸びるか見てみたいと思った。我の元でその能力を更に伸ばしてみないか」
神の戯れと気紛れは紙一重。
彼の方にとって、底知れない能力を秘めながら神への道を立たれたハクを成長させる事が戯れの中の一つなのであろう。
弱者にとっては死と隣り合わせな災厄であろうとも、強者にとっては痛手ともならない遊び。
また質の悪い遊びを思いついたとハクは溜息を吐く。
成長させ、その後に彼の方は彼に何を望むのだろうか。彼の方にとっての失敗作になるつもりは毛頭無いが、ハクには利用されるつもりは無い。
「実はな。ある噂を聞いた。この湯屋に人間の娘が通ってくるとな」
今まで感情を一切見せなかったハクの気配がざわりと動く。素直な彼の反応に目を細めると彼の方は話を続ける。
「この湯屋に元神であった竜がおり、その竜と人間の娘が通じていると」
ハクの気配が威嚇に変わり始める。
彼の方は彼のその変化を楽しそうに話を続けるが、何を考えているのかその先は今のハクには読めない。しかしこれだけは分かる。竜と人間は互いに本来会い見える事が無い存在。その二者が互いに必要として共にいる。彼の方にとっては遊びの対象として格好の的であろう。
今までも神々にその存在を悟られ、その度に包み隠し千尋を守り続けてきたが、流石に今回は手強い。
けれど、彼女を放す気も、彼女を神々の戯れの餌食にする気も、毛頭無い。
人間の少女は竜を求めた。
互いに傍にいたいと望む以上、ハクは己の命を掛けてでも、その関係を守り続ける。
「我はおぬしの力が何処まで伸びるのか見たい。折角の有能な存在を見つけたのだ。ここで果てさせるのは惜しい。おぬしの実力を見せよ。その如何によっては褒美として再び神の位を与えよう。現世においておぬしの場所を与えよう。その後は好きにするが良い」
ハクは目を見開いた。
彼の反応を彼の方は既に予測していたのだろうか。笑みを深める。
「どうかな」
ハクは即答する事が出来なかった。
神に再び戻れる機会を与えられる事に驚いたのでは無い。
己の能力を認められ、可能性を信じられた事に喜んでいるのでは無い。
彼の方は言うのだ。
『現世に姿を持ち、千尋と共に生きる道を与えよう』と。
今の彼には、例え湯婆婆との契約から逃れたとしても、その先が無かった。
千尋と共に生きたい。
何にも捕らわれず。彼女の傍で。
それは何度も願った事だ。
しかし彼には彼女と共に生きる術を持たなかった。
魔法や神通力、そんな力では無く。
存在を示す場所さえも。
二人を生かす術さえも持っていなかった。
いくら力を持っていても、己を生かす場所が無ければ、無いも同じ。
彼の方は、彼の方の下にさえ付けば、その『存在する場所』を与えるというのだ。
彼女の生きる現世に。
「-----期間は」
目の色が変わったハクの姿に、彼の方は満足そうに微笑む。
「それはおぬし次第」

甘い匂いが篭る細い首筋を、絹糸のように細い髪を、ハクは頬で感触を愉しむ。
甘えるような彼の行為に千尋は戸惑いながらも受け止める。
己を抱き締める腕が酷く寂しそうだったから。
普段、負の感情を見せる事が少ない彼がどうしたのだろうと心配しながらも、今この腕から逃れてしまったら、彼の感情に触れてしまったら、彼の中の何かが壊れてしまうような気がして、千尋はただ抱き締められていた。