■千尋最強伝説・41■
千尋はハクに抱き締められて、すかさず身を引いた。
そんな彼女の行動にハクは目を丸くすると、すぐに瞼を落とし自虐的に笑った。
「そうだな。そなたはもう御方様のものだ。私のような下級の竜神が気軽に触れていいものではないな」
するりと離れていこうとするハクの狩衣の裾を掴み、彼をその場に留める。しかし彼は彼女を見ようとせず、顔を落としたままだった。
「違うのハク!それだけは駄目なの!」
「分かっている。すまなかった。御方様の一の方となられたのだ。千を御方様専属とし、これからは他の客も寄せ付けぬようにしよう」
「そうじゃないの!」
「……ほら、もう夜も遅い。明日お披露目とやらがあるのだろう?それであればもう寝た方が…」
ぱしんっ!
衝撃がハクの頬に響いた。
千尋がこんな風に誰かを、まさか自分を叩くと思っていなかったハクは痛みよりも驚きに、彼女を見た。
こちらを睨み付ける様に真っ直ぐ見据える千尋は、今まで彼に見せた事の無い強い眼差しで彼自身を射抜くように睨み付けていた。
「ハク。私にはハクだけよ。ハクと一緒にいる為にここにいる」
「――」
「ハクは」
怒っているのだろうか、いや違う。
泣いているのだろうか。いや違う。
蔑んでいるのだろうか。いや違う。
「ハクは私にどうあって欲しいの?」
彼女の眼差しの強さは、意志の強さ。
全てを懸ける覚悟をした者の瞳。
――ハクはこの期に及んで、彼女の眼差しから逸らす事しか出来なかった。
それが、彼女を傷つける行為であることも。
引き返せない間違った選択肢を選んだ事を自覚していても。
「分かった。いいよ。今ここで私を抱いて」
千尋はその場で帯の結び目に手をかけると水干を脱ぎ始める。
「千尋っ!」
「確かめればいい。私が御方様に抱かれたのかどうか。ハク自身で確認すればいい」
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■千尋最強伝説・42■
その日油屋で一番大きい宴会場の貸切予約が急遽入った。
既に間仕切りをする事で小規模の宴会の予約が幾つか入っていたのだが、その予約が雷神直々に湯婆婆から言い渡されると、他の全ての予約をキャンセルして用意をさせた。
そうして一つのふれが湯屋内、従業員、客関係無く広められた。
『今夜雷神主催の宴が催される』と。
参加する者は問わず、客も従業員も関係無く、ただ集まる事。それだけ。
料理も杯も何一つ手配はされず、宴の余興を行う者も雇われていない。
何一つ無い中で、集まることだけ。それだけがふれられた。
上級の神が直々にそこまでのふれを出して、参加しない者などいない。
興味本位は勿論、自主的に参加する者もいたが、一方で主催の神の位の高さから同日に宿泊しているのに参加しないで今後の関係に悪影響を万が一にでも及ぼしたらと怯え偽客として渋々参加するものもあった。
ただ、宴の大きさに期待を膨らませて集まるものが大半だった。
事前の噂で流れてくるのは、人間の娘が何かをするのではないか。というもの。
彼の御方のお手つきになったはずの娘が今更な何をするというのだ。という疑問と憶測が、湯屋中を飛び交っていた。
「リン!何か聞いているかい?」
湯殿の片付け途中同僚に声を掛けられたリンは、振り返り、そして首を横に振った。
「いんや。何もきいてねぇよ。っていうか、昨日から見当たんねーんだよ。千の奴」
「えー。千が何かするってでまかせなのかなぁ」
「準備してるんじゃないの?」
「それとも御方様が昨日からずっと放してくれないとか?」
盛り上がる小湯女たちに、リンは溜息を吐く。
彼女たちは真実はどうでもよく憶測という名の邪推を広めたいだけなのか。と気付いたからだ。誰か一人でもまともに千を心配してくれよ。と呆れにまた溜息が出る。
「そういや、ハク様もいないぞ」
小湯女の話に割り込んで男が一人加わった。
「何!何それ!とうとう我慢できなくなったハク様が千を連れ出して逃避行とか!?」
「そんな事ばれたら湯婆婆に石炭にされちゃうよ!」
(それならそれで、ハク様が覚悟をついに決めたって事で認めてやってもいいけどな)
そんな事をリンは一人ごちる。
ここ最近のハクの体たらくには腹が煮えくりかえっているのだ。
あんな駄目男に家の可愛いムスメは絶対にやれん!と心に決めたくらいだ。
ともかく千もハクも、その日従業員の誰もが見つける事はできなかった。
雷神の当然の依頼に準備する事は然程無かったがそれでも今まで采配を前任してきたハクが見付からず湯婆婆はヒステリックを起こしていたが。
そんな風に飛び交う噂の中、宴の時を迎える――。
雷神が今まで何を為してきたか初めて知る事となった――。
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■千尋最強伝説・43■
白く小さな手がひらひらと揺れ、まるで蝶のように中空を舞った。
響く鈴の音が静かな世界の中で唯一の音楽のように鳴り響き、空気に溶けた。
白と赤の重ねの清楚な衣の裾が揺れる度、ささやかな振動が広がる。
髪を首の後ろで一つに束ね、巫女衣装を纏う少女は、神への舞を厳かに捧げる。
人間である少女から、人としての匂い一つ無く、人としての気配一つも無い。
人形のようにがらんどうでもなく、穢れを一つ纏うことの無い、神が宿る器そのものであった。
それは自然界に存在する、土や、石や、森や、川と同じ。
少女自身が神域そのものであった。
集った神々は目を見張った。
太古から幾つもの巫女の舞を捧げられ、見守ってきた。
しかしこれ程純化された舞を見た事は無い。
大概は人としての気配が抜け切れず、願いや、思いや、意思が消えぬもの。
それが人というものであるし、人が神の宿る器に成り得る事などあるはずもないと、誰もが信じていた。
雷神がこの湯屋で働く人間の娘を使って面白い余興を催すとは聞いていた。
同じこの湯屋で働く元神でありながら魔女の弟子に落ちたという神として恥ずべき竜に、恋をした娘がいるとは噂で聞いていた。
それが、このような奇跡のような光景を見られるとは誰もが信じられなかった。
舞は湯屋の中で神域を広げる。
穢れを癒しに湯屋を訪れた神は鈴の音が響く度に芯から浄化されるのを感じる。
袖が揺れる度に空気が澄んでいくのをその場にいる誰もが感じる。
微かに響く揺らぎが神が持つ神の力を純化し、より研ぎ澄まされていく。
これこそが本来神が望む。
神に捧げられるべき、――神楽舞。
舞が終わり、鈴の音の残響が消えると同時に、神域はその場から一気に収束し、神々の賞賛の拍手が響いた。
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■千尋最強伝説・44■
舞が終わりその場に膝を突いた千尋は、神々の喝采と拍手に顔を上げた。
全霊を懸けて舞った舞の後には、ずしりと体が重くなる。
雷神曰く神の器から人間として我を取り戻すからだと言われるが、何度やっても重さと共に全身を襲う倦怠感は慣れない。
それ程に己という業が重いのだ。と笑われるのだが、そう言われるのならそれも悪くは無いと思い至った。
本来の千尋は神の器ではなく、千尋という一人間なのだから。
顔を上げると、神々は千尋を囲むように近付き、皆一様に「私の元へ来ないか」と誘った。
社殿に控える巫女、もしくは神の嫁として求められ、迫り来る神々に潰されそうになる。
千尋は訳が分からなかった。訳が分からないまま雷神を見上げると、彼はいつものようにこうなる事を分かっていたかのようににやにやと笑みを浮かべ、こちらを見ていた。
その表情にむっとするが、この状況を変える事は出来ない。彼女を囲むのは上位から下位の者まで様々だとしても仮にも神。断る事も話を濁す事も出来ない。濁すにしても言霊一つで全てが決まるこの世界で言葉は選べず、すぐに本心は見抜かれる。しかし一方で力の無い人間に神の申し出を断る事は出来ない。
困り果てた千尋の前にすっと人影が神々との間を遮る。
「お客様、申し訳ありませんがこの者はここで働く者です。残念ながら何処へ参る事も出来ません」
「…ハク」
千尋は庇うハクの衣の裾をきゅっと握り、彼の背に隠れた。
「では金は出す。一晩買う。もう一度私の前で舞ってもらう」
「いや待て。それなら私が先だ!」
「従業員というのなら身請けも出来よう。幾ら積めばよい?」
一層詰め寄る神々にハクは眼差し一つ変えず首を横に振る。そんな彼の姿に詰め寄る神のひとりが気付く。
「もしやそなたがこの湯屋で働く竜か!」
「何っ!?だったらお前如きが囲っていい娘では無かろう!こんな人間の娘は稀有だぞ!今までに見た事が無い」
「竜。もしこの娘を譲ればお前の神格を取り戻してやろう。どうだ」
千尋がこの湯屋にいる理由である竜である事に気が付いた神々は様々な交渉を持ちかけるが、ハクはただ黙ったままでいた。
何一つ答えず、首を振る事も無いハクに焦れた神々は今度は部屋の奥にいた湯婆婆を振り返る。
「こやつに話しても無駄だ。湯婆婆だ。湯婆婆に交渉しよう」
そう声が上がると、次々に湯婆婆の元へ走っていく。
神々が自分たちの元から離れ逃れる隙間が出来るのを見計らって、既にこの場からいなくなっていた全ての現況である雷神の元へハクは千尋を連れて向かった。
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■千尋最強伝説・45■
ハクたちが来るであろう事を既に見抜いていた雷神は、ハクが自室の前で声をかけるよりも先に力を使って扉を開くと、二人を招き入れた。
いつものように神は上座に座り、肘置きに肘を付くと気だるそうに寄りかかり、目の前に座す二人を見据えた。
「ハク殿は昨夜その娘を抱かなかったのだな。つまらん」
「…っ!見てたんですかっ!」
雷神の開口一番の呟きに反応したのは千尋だった。
「ふん。お前の気配なんて何処にいても分かる。舞の時以外、その穢れは拭えんからな」
侮蔑するように鼻で笑う雷神に千尋は反論できず、睨み付けた。
「もしそのままハクに抱かれる事があれば、使えぬ駒はその場で切り刻んでやろうかと思ったが、残念だったな」
「……」
千尋はハクの昨夜の選択は間違っていなかったのだという事にほっと安堵の息を思した。
しかし、隣に座るハクの顔色は優れない。
いつ殺されてもおかしくない日々を過ごし、目の前の神と毎日対峙してきて、今日を迎えた。
突然教え込まれた神楽舞。
日々教わるにつれて己の舞がいかに付け焼刃で、何一つ真意を分かっていなかったと千尋は恥じた。
神楽舞は、音楽一ついらないのだ。
手に持つ神楽鈴一つで舞は完成する。
神への舞は、神降ろしであり、神を降ろす器となる事。
沢山の事を神直々に学んだ。
どんな意図があるか分からないままであったが、生き残る為に。
彼がハクを追い詰めるのを楽しみにしていて、その為に自分に舞を教えてくれているのだとは分かっていたけれど選択権は無かった。
昨夜の件で、彼の真意はこれだったのだろうか。と、それを二人で乗り越えたのだと思っていたがそれは思い違いなのだろうか。選択権の無い中でも確実に、今日を二人で迎えられたのに、何故ハクは何かを思いつめたようにじっと雷神を見上げていた。
「そんな事よりも。面白い余興であったろう」
ハクの反応を楽しむように雷神はにやにやと笑みを浮かべ、彼を見る。
「余りにも下品で下手だったのでな、私が仕込んでやった。――どうだ?見事なものだろう」
「――」
「毎夜毎夜人間を相手にしてやったのだ。ありがたいと思って欲しいものだな」
「――」
「その表情が見たかった」
満足そうに雷神は笑う。
「…ハク?」
千尋がハクを覗き見ると、彼は酷く傷つき、そして、絶望で今にも消えてしまいそうだった。その表情に彼女は顔を上げると、雷神を睨み付けた。
「何をしたんですか!」
「さてな。ハク殿に聞けばよい。さぁ、ハク殿。そなたはどれを選ぶ?愚かな竜の選択それこそ最高の余興だな」
「ハク?私しちゃいけない事したの?何か取り返しの付かない事をしたの?」
俯くハクの頬に両手を添え、千尋は傷つた表情のままの彼を労わるようにそっと声をかけ、問いかける。
ハクは触れる彼女の手に己の両手を重ね、そして呟いた。
「――もう、千尋を抱く事は出来ない――」