■千尋最強伝説・36■
千尋は、目の前で座し、面白い余興が見られたと笑う神を睨み付け、そして微笑んだ。
「泣くのも抱かれるのもお断りです」
「そうか。つまらん。ハク殿の願いを本当にしてやろうと思ったのに」
「ハクは願っている訳じゃないです。誤解しているだけです」
「変わらないだろう。己の為に全てを捨てて迎えに来た娘一人信じられないとは」
「…」
「私が、お前が何を犠牲にして今ここにいるか知らないとでも思ったか」
雷神は驚く千尋の様子に不快そうに鼻を鳴らす。
「お前が本来生きる場所、生きる時間、全てを捨ててきただろう。我々から比べれば一瞬と言ってもいい命の中で人間として生きる為に得たもの、積み上げてきたもの、全てを持ちながら、ハク殿を選んだ。私は人間は嫌いだ。だが、お前が代償にしたものの重さ位は分かる」
千尋は瞬いた。
人間の事が嫌いだと言いながら、今までの言動から決して関心が無い訳ではなく、この神は全てを知っているようだった。
「お前は度々私を馬鹿にしている節があるな。嫌いだからと言って、そのものを知ろうとしない訳でも、知らない訳でもないのだ。知った故で私はお前たち人間が嫌いなのだ」
「――」
「人間の娘に入れ込んでいるハク殿以上に、人間というものを、人間の娘を知っている矜持はある」
千尋がどれだけの決断をして、この世界に来たか。
雷神の言葉は、これまで神として過ごし、幾つもの命の一生を見つめてきた故の重さがあった。
雷神は、人間の命の短さを知りながら、その限りある時を知りながら、それ故に、惹かれあう人間の娘と竜神の滑稽さを嘲笑っていたのだ。
「そうさなぁ。お前が望むなら、私の力で元の世界に戻してやってもいい。人間として生きる方がお前は余程価値のある生き方ができると思うぞ」
その心の強さ故。
魂の強さ故。
「こんな異世界で日頃人間というだけで端から見下されて暮らすよりも、人間の中で暮らす方が余程、その有能な才を伸ばし、お前にとってよりよい一生を遂げられるだろう」
人間の男と結縁し。
子を成し。
命を紡いでいく方が、人間として余程生を全うしやすいだろう。
態々苦しむ必要も無い。
「ハク殿を選ぶよりも、いい男が人間の世界には沢山いるだろう。ハク殿よりもお前を理解し、お前を許し、お前を守り、お前を愛しく想う、何より、異種族故分かり合えないと言う事も無い、お前にとって最良の相手が見つかるだろう」
雷神はにまりと笑う。
「――閨事が仕事であると承知しながら、お前がこれまで自身で操を守り続けていた事に甘え、何の策も練らず、いざ、お前が未通娘では無いかもしれない出来事が起きたくらいで態度を変えるような心の狭い竜神を選んで、これから先やっていけると思うか?」
「……」
「こんな機会は二度とないぞ」
甘い囁きが、千尋を誘惑した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
■千尋最強伝説・37■
「残念ながら、私は最初からそういうもの全てを捨てる事を決めて、ここにいるんです」
幾度だって考えた。
あのまま普通に暮らし、大学に進学でも、就職でもして、そこで好きな男の人を見つけ、その人と一生暮らしていく。そうして時を重ね、子どもが出来、いつかその子どもも結婚してまた新たな命が生まれる。
そうして命を繋げていき、その中でハクが戻って来た時に、もし自分を探し、その血脈を、自分が生きたのだという、証を見つけてくれたのなら。
そうした再会もあるだろう。
そう考えた時もあった。
それだけ、神と人間の時の流れは違うのだと、神という存在を知れば知るほど、容赦無く知らされたからだ。
それでも。
「私は、あの世界で人間として生きて、命を全うし、彼を迎えるよりも、彼と一緒に生きると決めたんです。命を全うするなら彼の隣でと決めたんです」
「お前はどうであれ、いつかは必ずあの者を置いて先に逝く。残酷だな」
「それは分かりません」
「何故」
「人の命も、神の命も、必ず明日があるとは限りません。明日、死ぬ事だってあるんです」
「それでも全うに生きれば、必ずお前の方が先に逝く」
「それが命です」
「それをハク殿は分かっているかな」
「それをハクが分かっているかどうかは分かりません。彼をいつか置いていくかも知れない事も散々考えました。それでも、それが私の命なんだから仕方がありません」
「身勝手だな。置いていかれる者の悲しみを分かろうとしない」
「命は必ず費えるものです。命なんてその人が想いのままに生きる限られた時間です。身勝手だと言われても命の時間には逆らえません。だったら、限られた時間の中で出来る事は全てやります。生まれ変わりがあるかは知りません。でも生まれ変わりの私じゃ意味が無い。私の子どもや孫がハクと再会するんじゃ意味が無いんです。私がハクに会いたい。私が今の私でハクと一緒に生きたい。その為に私は全てをかけます。何を犠牲にしても、何を代償にしても、選ぶものは決まっているから。私の命の時間は神様より確実に短い。そうしたら私はその時間の一秒でもハクと共に生きたい。そう選んだんです」
「……では、帰らない。と」
「帰りません。もし帰るとしたら、それはハクと一緒にです」
「ハク殿が戻らないと言ったら」
「私も戻りません」
雷神の問いに最初から決まり事だったようにすらすらと淀み無く答えていく千尋に、彼は溜息を吐いた。
「ハク殿がお前を必要無いと言ったら?」
「私はここで生きていきます――」
ハクに見限られれば彼女はこの世界にいる意味は無くなる。けれど、この世界に来た時点で彼女の帰り路は絶えてしまっている。
心なんて分からない。
もしかしたら、再会すれば、実はハクは千尋を必要としていないかもしれなかった。
油屋だって雇ってくれるか分からず、もしかしたら生きる場所も無く、帰る場所も無く、この世界に辿り着いたと同時に消えてしまう可能性だってあった。
それでも、千尋はこの世界に来る事を選んだ。
帰り道を無くしても、それでもハクと再会する事を選んだ。
何度も量りにかけ、幾度も悩み、そうして決断して、全てに覚悟を決め、人間の娘はここにいる。
何も語らずとも、彼女の瞳は全てを物語っていた。
「――大したものだ」
雷神は初めて、感嘆の息を漏らした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
■千尋最強伝説・38■
古代より、生贄という風習が日本にはある。
山や海が荒れた時、大地が乾いた時に、其々を司る神に祈る。そして神に捧げられる供物として、生娘が捧げられた。
娘は皆、己の命が神に捧げられる瞬間には費える事を覚悟して、その時を待つ。
神にとって供物には然程意味は無い。
対価のように供物を与えれば望みを叶うなどと思っている人間を浅ましいとさえ感じる。
神は為すべき時は為すし、為すべきで無い時は為さないだけだ。
それ以上の意味も、義務も、責任も無い。
生贄如きで神を意のままに操ろうとする人間を哀れみながら、時に喰らい、時に交わい、時に生き永らえさせる。
その中で時に、神の嫁として迎えられる者もいる。
人間を気嫌う雷神からしてみれば、分からない感情であるが、時に神々の宴の際に、そうした神の嫁である巫女を連れて参加する者がいた。
時の流れは無常だ。
まだ若き娘もいれば、老婆もいる。
そして、既に伴侶を亡くした神もいる。
先に費える命と分かっていて、何故娶るのか。
雷神には、どうしても理解が出来なかった――。
「……お前のような者なら、娶ってもよいと思うのかな…」
雷神は呟くと、持っていた扇子を広げ、ひらひらと蝶のように舞わせた。
筋の見える太い腕が、ひらひらと繊細な動きで扇子を舞わせる。 千尋は沈黙をし、ただそれを見つめていた。
「ハク殿は本当に――愚かだな」
それだけを呟くと、雷神は扇子をぱちりと閉じた。
「人間の娘よりも愚かしい」
雷神がすくりと立ち上がると、最初に対面した時以来、初めて千尋の元へ近付き、そして彼女の額をぴしりと持っていた扇子で叩いた。
「よし。そろそろいい時期だろう。お前は下がり、湯婆婆を呼べ」
「――それはまたハクを陥れる為ですか」
千尋は視線を上げ、真っ直ぐに雷神を見据えると、威嚇するように瞳の色が濃くなった。
それに威圧されるような雷神ではない。彼はまたいつものように彼女の感情さえ弄んでいるのだろう、にやりと薄笑いを浮かべた。
「何度も同じ問いを繰り返す。頭の悪い娘だ。それ以外に何がある」
「だったらお断…!」
「では死ぬか?」
「――」
「お前は私の言う通りに動いていればよい」
千尋はただぎゅっと唇を噛み締め、頭を垂れると、静かにその場を辞した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
■千尋最強伝説・39■
千尋と顔を合わせなくなってからどの位経っただろうか。
ハクは帳場でいつものように帳簿を付けながら、ふと筆を止め、顔を上げた。
既に皆本日の業務を終え、各々部屋に戻り眠りに就いている。
最近眠りの浅くなったハクは、仕事自体は既に終わっているのだが、何かにつけては業務を終えた後もこうして文机に向かい合い、物思いに耽る事が多くなっていた。
ふぅと、息を吐いてみるが、胸に痞えた靄は、千尋が雷神の元に行って以来取れる事が無い。
いつになったらこの苦しみは拭えるのだろうか。
いっそ千尋がいなくなってくれれば、取れるのだろうか。
そう思ったら、自分で自分の心に冷めた。
何て事を思っているのだ。自分は。
一度この油屋で大変な思いをした彼女が、どれだけの覚悟を持ってここに再度訪れたか知っているというのに。
それも、抜け出すことの出来なかった自分を思って迎えに来てくれたというのに。
彼女が目の前に現れた時の己の高揚といったら無かった。
けれど、思い出し高鳴る鼓動も、すぐに今ある現実を思い出し小さくなる。
そう思う一方で、彼女がこの世界に来なければこんな苦しみを味わう必要ななかったのではないだろうか。
そう思ってしまう己がいるのだ。
雷神の元に招かれ、毎日のように通い続ける少女。
後ろ姿を度に、心が黒く虚ろになっていく。
彼女が日に日に磨かれ、輝いていく度に、寂寥感が己の胸に降り積もっていく。
彼女の手も。
彼女の指も。
彼女の足も。
彼女の唇も。
全て、もう、雷神のものになってしまった。
湯屋にいるという事はそういうこと。
男である自分が守れるには限界がある。
分かっていて、それでも彼女が傍にいてくれるというから、つい、嬉しくなって、彼女を油屋に置いた。
その結果、彼女は身を穢してしまった。
最初から彼女が元の世界で待ち続けてくれれば、それだけでよかったのに。自分の言葉を信じ続けてくれればよかったのに。どうして来たのだ。この世界に。
そう千尋を非難する己がいる事に、ハクは自分で自分に驚いた。
――何て醜い心を持っているのだろう。私は。
そう思って、ハクは拳を握り締める。
「ハク」
己の心の醜さに落ち込んでいた所に、柔らかな声がかかる。
その声色を聞けば誰なのかもすぐに分かる。
だからこそ、ハクは振り向けなかった。
戸口で声をかけた千尋は戸惑いながらも、ゆっくりと中に入り、彼の横に座ると、彼の顔をじっと覗き込んだ。
「ねぇ。ハク」
「……」
ハクは答えない。
こんなことをしたいわけじゃない。
千尋に冷たくしたいんじゃない。無視をしたいんじゃない。
それでも彼女に優しくできない。
いつも雷神が触れるその体で、触れて欲しくない。
いつも雷神が耳元で聞くその声で、名を呼んで欲しくない。
「ハク。明日ね、お披露目をするから、見に来て」
「――」
「絶対に見に来てね!」
千尋が幾ら訴えようとも、ハクは目を合わせる事も無く、彼女を少しも振り返ろうとしない。
「……」
ぐいっ!
千尋は強引にハクの両頬を掴むと、己の方に向けさせた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
■千尋最強伝説・40■
「ハク!ちゃんと私を見て!そしてちゃんと答えて!」
雷神が仕掛けた罠にまんまと嵌り、落ち込むハクの姿に、千尋は呆れと同時に苛立ちを覚えた。
仕方が無い事は分かってる。
あの状況で、今まで自分がしてきた事を思えば、ハクと一緒にいたいと言っていた自分が、自分で自分の身を守るといっていた自分が、雷神のお手つきになったとしか思えず、そうであれば千尋は嘘吐きでしかなく、彼に嫌われても仕方が無いだろう。
けれどもしそれを信じているとして、千尋の事を見たくないほどに嫌らってしまったというのなら、逆に言うのなら、異性として大切に思われていたのだという事だ。
彼はいつだって何処か庇護される子どもを懸命に守るような言動しか見せてくれない。
こちらの世界に来てからもずっと、まだ十歳の頃の子どもの時と同じ扱いをされているのか、それとも異性として心配されているのか不安だった。
けれど、きっと前者であれば、千尋が床入りをしたと思った時点で、もっと気遣った言葉をかけるだろうし、違った配慮を見せただろう。
少なくとも顔も見たくなくなるほど嫌われる事はないはず。
好きな女の子が他の男の人と床入りしてしまったら、嫉妬するよね。
きっと自分が逆の立場だったらと思うと創造がついてしまうので、期待してしまう。
そう思うと、誤解をさせるように仕向けた雷神に恨み半分、感謝の気持ちもあった。
「ハク。私に怒ってるの?だったら言って?言ってくれないと分からないよ」
「……」
「ハク…もう私の事はいらなくなった?」
「……」
「この世界から消えて欲しいほど?」
「……」
千尋はただひたすらに言葉を待つ。
黙秘し続け、目を伏せたまま合わせようとしないハクを見つめ続けた。
やがて己が答えなければ彼女がここから去らないのだと諦めた彼は顔を上げ、千尋を見た。
「……私が、千尋に……触れたい…」
ハクは今にも泣き出しそうな眼差しで、搾り出すように声を出すと、千尋の背に手を回し、抱き締めた。