彼の2

ハクのばか。ハクのばか。ハクのばか。
ハクのばか。ハクのばか。ハクのばか。

千尋の頭の中に浮かぶ言葉は同じ言葉ばかり。
ハクから逃げるようにして油屋に戻り、そのまま仕事の時間になったが、働いている間もずっと変わらない。ふとした瞬間に意識を現実に戻しては、雑巾を握る手に力が入っていたり、お膳を運ぼうとしても意識が集中せず足元が危なく、危うく落としそうになったり。リンには不信がられたり。
ハクのばか。
それだけが千尋の中の全てを埋めつくのだ。
言葉の羅列で意識を埋め尽くす。
最近千尋は自分の目の前で起こっている事の現実についていけない。
突然のことだった。
ハクにーーーーー好きだと言われたのだ。
今までとは全然形も言葉も声も違う『好き』。
親心のような『好き』でもなく。
兄弟のような『好き』でもなく。
ただの『好き』。
女の子として『好き』になって欲しいとか。
もっと『好き』になって欲しいとか。
色々願っていた事はあった。
傲慢だと思われるかも知れないが、好きだと思われているとは感じていた。
側にいてくれるから。
触れてくれるから。
しかし、ハクはそんな形のある『好き』を通り越して。
兄弟としても、親心としても、異性としても通り越して。
『千尋』を『好き』だと言われた。
自分の願いを越えた『好き』をぶつけられて。
恐くなって思わず、逃げ出してしまい、泣いてしまった。
けれど、嬉しい気持が一杯で。
幸せな気持が一杯で。
それから何日かの記憶はぼんやりとしか覚えていなかった。
意識がふわふわと浮いてしまった。
本当にそのくらい心が浮いて、どうにか地に付くように留まらせようとしても、留まってなどくれず、浮き足立っている日々が続いた。
ハクも、一時期のように、仕事中も休憩中も見境無くではなく、時間を見つけては千尋の元へ遊びに来てくれたり、外へ連れ出してくれたりした。
本当に、本当に幸せで。
夢ではないかと思うくらいに嬉しくて。
千尋の気持ちは常にふわふわと宙を浮かびっぱなしだった。
-----のにである。
そのハクとケンカした。
ケンカと言えるものかと言われたら違うかもしれない。
仲違いした訳でもなく、嫌いになった訳でもない。
ただ千尋は悔しくて悔しくてたまらず。
ついに頂点を切ってしまったのである。
浅はかな行動だったのかもしれない。しかし、千尋自身が思い返すに、仕方が無かったのである。

話は戻って少し前。ハクと千尋が花咲き乱れる油屋の庭の一角にていつものように休憩時間を使って、一緒に昼食を取っていた時の事である。
千尋が何よりも大好きな、ハクお手製のおにぎりを食べながら、二人は他愛も無い話をしていた。
「あれ?ハクは食べないの?」
夢中になって、食べる事と、お喋りをすることに集中していた千尋は、ふと、自分の手元にあるおにぎりと、笹の上に置かれたおにぎりの数を見て、ハクを向いて、首を傾げる。
「ああ。千尋の幸せそうな顔を見ているだけで私は満足だから」
恥ずかしげも無く、さらりとそんな事を口にするハク。
「あぅ」と顔が火照るのを感じながら千尋は、「それじゃあ私が食いしん坊みたいじゃない・・・・」と臆面も無い彼の台詞にせめてもの抵抗を試みる。
すると、ハクは目を丸くし、クスクスと笑い始める。
「違うよ。千尋は私の作ったおにぎりをいつも美味しそうに食べてくれるから、嬉しくて仕方が無いんだ。そんなに美味しい?」
さらに畳み掛けるように続けられる甘い台詞に、千尋は未だ慣れず、受け流す事も、素直に受け止める事もできず、少しムキになって、「おいしい!」とだけ答える。
それが間違いだった。
「そう」とだけ呟くと、ハクは体を動かし、千尋に近づく。
何をするのだろうと、突然の読めぬ行動を取るハクに千尋はきょとんと彼を見つめる。

ぱく。

千尋が手に持っていた、食べかけのおにぎりをそのまま一口、口にする。
そして顔を上げると、「うん。おいしい」と笑って、彼は満足げにそして少し頬を染めならが言った。
千尋は呆然と微笑む彼の顔を見つめる。
手にしたままのおにぎり。
彼女が口にしていたものだ。
彼女が口にしたところから、おにぎりの形は崩れていて、ハクがそこからまた形を崩していった。
千尋が口にしたところを、ハクは口にした。
世の人が一般に言う。
間接キス。
ぼわっ。
頭の血が一気に上り、湯気が出ているのではないかと本人が思うくらいに、千尋は真っ赤になっていた。
「・・・っ!!・・・っ!?っ!?!!?」
声を出そうとするが、うまく言葉になって出てこない。
何を口にしたいのかも分からない。
声にならない悲鳴を千尋は上げ続ける。
ハクをもう一度見上げると。
------彼は肩を震わせ、声を押し殺して笑っていた。
彼が意図的に図った事に気がつく。
千尋をからかう為に。
千尋の怒りが頂点に達した。
「ハクなんて大嫌いっ!」
抑えきれない悔しさを声に出して、千尋は恥ずかしさと悔しさでそこにいられなくなり、逃げ出した。
そして、今に至る。

ハクのばか。ハクのばか。ハクのばか。
頭に中に浮かぶ言葉は常に同じ言葉ばかり。
いつもそうなのだ。
ハクといるのが楽しくて、お喋りをするのが楽しくて、ずっと一緒にいたくて。
好きで。好きでしょうがなくて。
幸せなのだ。
絶対にハクのことを嫌いなったりなんかしない。
ハクはいつも触れてくる。笑顔で笑いかけてくる。それは千尋だけ。千尋だけに見せる一面。
ただハクが、千尋の事を好きだと自覚してから。
千尋がハクのことを好き異性だと好きなんだと自覚してから。
行動にからかいが入るようになったのだ。
今までだって不用意に触れてきて、思いがけない言葉を告げられたりして、ハクが心のまま直接ぶつけてきて、困った事は多々あった。
それでもそれは、ハクが千尋に好意を持っているからであって。純粋にぶつけてくるのであって。
意地悪からではなくて。
-----好きだからという、それだけの理由だった。
しかし、今のハクは違う。
千尋がハクを好きだと知っているくせに。
どれくらい好きだかということも知っているくせに。
それをもっと証明させるかのように、思いがけない行動を取っては、彼女を困らせるのだ。
千尋が困ると分かっていて、意地悪な事をしてみせるのだ。
男の人を好きになったのは、ハクが初めてで。
両思いの好きな人にどんな風に接して良いのか分からない。
自分が好きで、相手を好きで、両思いという関係が分からない。自覚も出てこない。
毎日が初めての繰り返しで。
嬉しくて、恥ずかしくて、胸のどきどきがおさまらなくて。
それでも、ハクを好きだという気持は膨らんでいって。
少しでもこの気持に慣れようと思うのに、慣れないのだ。
それを知っているかのように、ハクは千尋を好きだと言う事を行動と言葉で直接ぶつけてきて、千尋はそれに満足に答える事ができずに戸惑ってしまう。それを見て彼は楽しんでいるのだ。
どれだけハクが千尋の事を想っているか。
ハクがどれだけ千尋に想われているか。
確認するように、からかって見せるのだ。
ハクはずるい。
絶対にずるい。
少し前までは千尋の方がハクのことを一杯好きだったのに。
千尋の方が先に大好きだったのに。
まるで、自分のほうが、千尋の好きより上だぞ言うかのように見せつけてくる。
ハクの方が、千尋が自分を想うより、もっと千尋の事が好きだぞと言われているようで。
とても悔しくなるのだ。

私の方がハクが私を想うより、ハクのこともっと好きなのに。