たとえばハクがもし、私のことを好きだと言ってくれたら。
たとえばハクがもし、私をお嫁さんにしたいと言ってくれたら。
好き。
その言葉の意味は?
家族、友達、兄弟、・・・・恋人。
唐突に告げられたハクの告白に、千尋は半分無意識に足が動き、彼の前から走り去ってしまった。
彼から離れるために逃げる途中、まだ営業時間の前で空室となっていた客室を見つけ、そこに逃げ込むと、障子を勢い良く閉め、後を追う足音が聞こえない事を確認すると、彼女はそこにへたりと座り込む。
一気に上り詰めた体温と活性化された思考がやかんの湯が沸いて蒸気が噴き出すように湧き出し、同時にどっと全身をもうこれ以上立ち上がり一歩も歩く事さえできないだろう倦怠感が襲う。
震える唇。何度も繰り返される呼吸、激しい鼓動。
余りの苦しさに、目には涙が溜まり、今にも零れ落ちそうなのをどうにか睫毛が支えている。
顔は紅潮し、今の顔は不細工で誰にも見せられるものではないだろう。
しかし、これらは突然全力で走った為になっただけではない。
この震える体と全身に痛みを与える鼓動の強さは、不意を突かれた激しい動揺からくるもの。
思考がまともに働かない。
ただ心に残るのは。微かな意識の中で繊細に焼きついているのは。
ハクの何処までも深い深緑の瞳と声。
いつもよりずっと深く、けれど強いものと確固としたものをもつ柔らかな光を湛えながらその奥に熱のある瞳と、低く響くいつも彼女に安らぎを与えていた雰囲気を少しも感じさせないくらい、熱く、音を聞くだけで心を攫われ吸い込まれてしまいそうになってしまうほどの熱を帯びた声。
激しく熱を持ち、焦がれているそんな空気。
「好きだ」
言葉。
身体に一瞬にして火がついたかと思った。
そのまま燃えて、燃え尽きてしまって、溶けてしまうかと思ってしまった。
それ以上ハクの前にいて、側にいる、立っていられる自信さえなかった。
どうして?そんなことはあるはずない?
そんな言葉が千尋の心をぐるぐると巡る。
何度も告げられたことのある言葉。
彼にとって何気無い言葉。
千尋にとって聞き馴染んだ言葉。
何も動揺する事は無いはずなのに。
彼が時々今のような不可解な行動を取り、彼女に動揺を与える事はあったけれど。
その意味することは決して千尋が望んでいるようなものではありはしないはずなのに。
なのにこんなにも今激しく動悸がする。熱が上がる。
彼から逃げなければいけないと思った。
ハクから離れなければならないと思った。
その言葉の意味は。
その言葉の奥にある気持ちは。
-------気づかないほど、鈍くは無かった。
たとえばハクがもし、私のことを好きだと言ってくれたら。
たとえばハクがもし、私をお嫁さんにしたいと言ってくれたら。
違う!
違う!違う!違う!
一つの形に思考が固まろうとするのを遮り、千尋はあえて色んな材料を混ぜミキサーにかけるように思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜ余計に意識を混乱させる。
きっとハクは、また気軽に言っているだけで。
それは家族とか友達の意味であって。
千尋がハクに思っている「好き」とハクの「好き」が同じになるなんてことはありえなくて。
ハクが自分のことを特別に見ているはずが無くて。
自分だけが一方的にハクを好きで。
本当にただ好きなだけで、彼が想いを返してくれる事なんて絶対に無くて。
ハクが自分を女の子として好きなはずが無い!
否定したにも関わらず、自分の中で望んでいる事を想いを改めて言葉に変換するだけで顔から火が出そうなほど恥ずかしくなる。
『好きだ』
耳から離れてくれることが無い、ハクの言葉。
胸が痛い。
想像していたことが、想像だけだったものが、現実に近づき始めている足音が聞こえる。
駄目だ!
千尋は慌ててそれを否定する。
あんなにも望んでいたはずなのに。
あんなにも焦がれていたはずなのに。
駄目だ。
今捕まっちゃ駄目だ。
危険信号が頭の中で点滅し付ける。
逃げなくちゃいけない。
見ちゃいけない。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ。
何処か遠くへ。
私だけの場所へ。
彼に私が見えない場所へ。
「千尋」
頭の中でもう幾度と無く反芻し続け、未だに耳に残る声が、再び現実として彼女の耳に直接入ってくる。
まるで、痺れ薬を飲まされたように千尋は動けなくなってしまう。
身体が火照って、微かな汗を感じる。
どくんどくんと耳まで痛い鼓動が外からの音が掠れて聞こえなくなるくらい早く鳴り始める。
「・・・昔から変わらないな・・・そうやって膝を抱えて丸くなる癖・・・」
柔らかな笑いを含みながら、ハクは彼女の逃げ込んだ部屋の障子を開け、彼女へと一歩一歩近づく。
かぁぁぁぁぁぁ。
全身の体温が沸騰し、これでもかと言うぐらい真っ赤に染まる。
何も今思い出させることはないではないか。
どれほど幼い時から一緒にいたか。
ずっとハクの側にいて。
ハクの側にいるのが心地よくて。
幸せで。
ずっと側にいたくて。
ハクが大好きで。
大好きが、いつのまにかもっと大好きになってて。
いつのまにか頭の中がハクで一杯で。
ハクのことしか考えられなくて。
千尋という私がハクという素材でしかできていないんじゃないかと思うくらいどんなことでも、どんなときにもハクのことばかりで。
涙が出るくらい。
どきどきで頭がぐるぐるしてしまうくらい。
大好きで。
大好きで。
たとえばハクがもし、私のことを好きだと言ってくれたら。
たとえばハクがもし、私をお嫁さんにしたいと言ってくれたら。
それは自分の中の夢であって、空想であって。
理想を求めて。
ハクが自分だけを見てくれたら。
女の子として。
好きな女の子として見てくれたら。
それは全部夢。
それが今千尋の目の前の現実に近づき始め、鮮やかに色づき始める。
あんなことしたい。こんなことしたい。
様々な事を考えていたはずなのに、それがもう目の前まで来ている。
心が震える。
脅える。
逃げなくちゃいけない。
何から?
ハクから?
どうして?
分からない。
でも。
逃げなくちゃ・・・。
震える足に力を入れて、無理矢理自分を立ち上がらせ、ハクに背を向け、その場から走り去ろうとする。
「千尋!待って!」
逃げようとする瞬間、ハクの方が先に動き、逃れようとする彼女の手を捕まえる。
熱い。
上昇する熱。
体温が気持ちがそのまま直接ハクに伝わってしまう。
これほどまでに彼のことを好きだということが。
駄目!
見つかっちゃ駄目!
一気に様々感情が濁流となって千尋を襲う。
「やっ!」
顔を見られまいと、千尋は咄嗟に腕を前に出し顔を隠す。ハクと決して目を合わさぬようにして。
きっと真っ赤に染まってしまっている。なみだ目になってしまっている。
彼と目を合わせてはいけない。
合わせてしまったら、きっと、もう戻れない。
「千尋!」
ずるいと思う。
ハクが自分の名前を呼ぶ事で、どれだけ嬉しくなるか。胸が一杯になるか。
それだけでどれだけ『ハクを好き』がもっと好きになるのか。
まるで分かってない。
分かってないのに。誰よりも何よりも愛情を込めて、彼女の名を呼ぶのだ。
優しい声で。柔らかい響きを持って。
彼だけの音で。
それはハクにしかできないこと。
なのに彼は呼び続ける。
彼が名を呼ぶたび、私はまた深く彼に囚われてしまう。
感情と意識が入り混じり、千尋自身でも分からない支離滅裂な言葉ばかりが頭に浮かぶ。
その間も、ハクの手から抵抗を続け、必死で彼の腕から逃れようとする。
それほどまでに千尋に嫌われているのか。
顔を見たくないほど己は嫌う対象だったのか。
ハクは千尋の腕を握り締めながら戸惑う。
彼女が自分に好意を持っていてくれていると信じていたのが、己の過信でしかなかったのか。
そうならばこの行為はさらに彼女に嫌われてしまうだけの行為になってしまう。
しかし、ハクはどうしても千尋の手を放す事ができない。
嫌われたくないのなら、すぐにでも放せば良いのに。
放したくない。
また己の欲が彼女を傷つける。
分かっているのに、己の奥にある本性が暴れ続けるのだ。
問い続けるのだ。
彼女を。
攻め続けるのだ。
己を。
だとしたら、どうしてこんなに千尋の腕は熱い。
どうしてこんなに、耳朶まで顔を真っ赤にする必要がある。
俯き、涙を湛え、今にも泣き出しそうでいて、何故そんなにまで魅了するのだ。
熱い。
まるでそれはーーーーーーー微熱。
いつかのハク自身にあったような。
どくんと大きく脈打つ。
己の体温が急激に上がっていくのを彼自身感じる。
頬が熱く、上気する。
どんな思いで千尋がいても。
どんなに、己の手から彼女が逃れようとしても。
この手は放せない。
想いは止められない。
「千尋。好きだ」
「やっ!」
暴れいた彼女が一瞬、ぴくっと動きを止めたかと思うと、さらに激しく手を振り払おうと暴れ始める。
そんな彼の行動から言葉から逃れようと彼女に苛立ちを感じ、ムキになり、ハクは千尋の腕を掴む己の手の力をさらに込める。
「好きだ!好きだ!」
否応無しに聞こえてくる言葉に、千尋は耳を塞ごうとするが、ハクはそれを許さない。
両手を繋ぎとめ、逃げられないように封じる。
身体も。心も。全て。
「好きだ!」
暴れていた千尋の足がハクの足に絡まり縺れ、そのまま床に倒れ込む。
「きゃっ!」
「っ!」
咄嗟にハクは千尋の体を庇おうとするが庇いきれず、どうにか千尋が後頭部から打ち付けられるのだけを守り、ハクが押し倒すような形で倒れ込む。
------やっと互いの目が合う。
見つめてはいけない。
そうしたら、もう逃げられなくなってしまう。
囚われてしまう。
千尋の体は硬直し、ぴくりと震えた。
深緑の瞳。
どこまでも深くて、その瞳の奥で何を想うのか。
千尋の想像では到底及びつかない。
その瞳が真っ直ぐ彼女だけを見て。
千尋だけを映し、焼き付ける。
瞳の奥に小さな炎を見つける。
小さいけれど、触れると火傷するほどの熱を帯びている。
逃げなくてはいけない。
逃れなくてはいけない。
危険信号を発するのは己の本能?理性?
それを理解するには彼女はまだ幼くて。
千尋には震えることしかできない。
たとえばハクがもし、私のことを好きだと言ってくれたら。
たとえばハクがもし、私をお嫁さんにしたいと言ってくれたら。
ハクの形の良い唇が震える。
紡ぐ言葉は千尋を繋ぎとめるために十分の言葉。
「好きだ」
つかまってしまったら、きっとーーーーーーー。
心が震えた。
千尋は訳も分からずに、ただ頬を伝う温かい涙を感じる。
止め処なく流れて。
止め処なく溢れて。
------もう、ハクからはなれられなくなる。
「すき」
千尋は震える唇を抑え、想いを言葉に紡いだ。
2003.08.28