灯篭に火が灯り始めるまであと僅かな時間。従業員がお客様のお出迎えの準備の為、忙しく走り回る廊下でハクは何ものにも目をくれず、早足で通り過ぎていた。
忙しさに追い立てられることなく、一瞬でも彼の表情を見取る暇があれば、彼の頬はほんのりと赤く染まっていたのに気づいただろう。
廊下を歩いている途中でハクは、仕事場に向かって歩いているリンと千尋を見つけた。
何気なくいつものように声をかけようとしたはずだった。
「今日も仕事大変だけどがんばろうね」と。千尋はきっとハクに笑いかけてくれるだろう。昔から変わらない無邪気な笑顔で。お互いに労い合い喧騒の中の暫しの癒しを得ようとしたはずだった。
声をかけようとしたその瞬間。
私は千尋を愛している。
その事実が頭の中にはっきりと言葉として焼きつく。
たとえば。
私が千尋に好きだと告げたらーーーーーー。
血が一瞬にして全身を駆け巡り、かっと身体が熱くなる。
全身が硬直し、動くことのみならず、声をかけることさえもできなかった。
鼓動は今までに無いほど煩いくらいに大きく早く鳴り続ける。
心臓の音が耳まで振動を与え、不快感を与える。
止まれ。と、制止しようと試みるがそれも適わない。
そのまま倒れるかと思いながら、半分意識朦朧としながらも意思で自分を支え、千尋から逃げてきたのだ。
鼓動が落ち着き始めた今、新たな痛みにハクは戸惑う。
想いを告げる事がこんなにも勇気のいるものだとは知らなかった。
想う相手に想いを言葉にすることがこんなにも恐れを感じさせるものだと初めて知った。
こんなにも愛しいのに。
こんなにも心は千尋を求めているのに。
行動に移す事のなんと勇気のいることか。
ただ「好きだ」と伝える。
それだけのことなのに。
同時に今までの自分が信じられなくなる。
あれだけ愛しいと想いながら、なんといとも簡単に「好きだ」と言葉にしていたのだろう。
あんなに千尋に触れようとしていたのだろう。
今ではどうやって彼女に触れていたのかさえ思い出せない。
どんな風に想って彼女にあんなに気軽に触れていたのだろうかと嫌悪感さえ感じる。
彼女をどれほどまでに軽んじていたのだろう。
愛しい想い。
今の愛しい想い。
言葉は同じ。
しかし、これほどまでにーーーーー深い。
好意はーーーーー抱かれているとは思う。
今になって自信を失くすのもなんなのだが。そんなこと確認しようと思うことさえないほど普通に当たり前のように側にいた。
この想いを告げた時。
彼女は微笑んでくれるだろうか。
喜んでくれるだろうか。
また、何よりも眩しい笑顔で自分を見つめ返してくれるだろうか。
それとも。
と、愛しさの鼓動とは裏腹な空虚な痛みを持つ鼓動一つ。
嫌われてしまうだろうか。
恋の対象として見ていないと言われるだろうか。
異性として見ていないと言われるだろうか。
今までの千尋にとっての自分の存在価値は、まるで・・・・親兄弟のよう。
それでも良いではないか。
冷静な答えを持つ自分と、憤りを感じる自分を己の内に感じる。
千尋の存在。想い。それだけで、ハクの心はこんなにも激しく揺すられる。
「ハク?」
いつの間にか足を止め、黙々と悩み続ける彼の耳に、愛しくて止まない少女の声が入ってくる。
未だ幼さを残す大きな瞳を瞬きをさせ、微笑みながら、少し心配そうに。
その瞳に見つめられると思考が溶けてゆく自分をハクは感じる。
溢れ出すおそらく『愛しい』という言葉で括るのだろう感情が彼の意識の許容量を越えていこうとする。
熱が上がり、鼓動とともに視界がぐらぐらとゆれる。
触れたい。
抱きしめたい。
千尋の温もりを感じたい。
そんな事をしてはいけないと咎める意識。何処までも止め処なく溢れてくる望み。
理性と本能が対する。
そんなハクの葛藤には勿論少しも気づかず、千尋は不安げに顔を上げ、ハクの瞳をじっと見つめる。
「・・ハク・・・・・・もしかして・・・・」
彼はまた自分から離れてしまうのだろうか?
彼女の中には不安が揺れる。
その後の言葉が続けれられない。言葉にしてしまったら現実になってしまいそうで、唇をぎゅっと噛み締め噤んでしまう。
私はハクが私のこと女の子として好きじゃなくても、側にいられたらそれだけでいいのに。
それさえも許されなくなってしまうのだろうか、不安を瞳に湛える彼女を余所に、ハクは己の体温がゆっくりと熱くなってゆくのを感じる。
抑えられない。
想うひとに想いを言葉にして伝える事はとても勇気のいること。
しかし千尋を愛しいと想う気持ちを誤魔化すことも止めることもできるはずがない。
千尋を愛していない己を己だとは思えない。
いつまでも。
伝えないでいるほど。言葉にできないでいるほど。
想いは、浅くない。
「千尋・・・・」
愛しい者のその名を口にする。
己の声で想う人を繋ぎとめる為に。己に刻み込むために。
ハクにとっては何よりも慈しむべき言葉。
彼の雰囲気がいつもと違う事、熱を持っている事を感じたのか、千尋はうっすらと頬を染める。そして目を細めこれ以上ないくらいに愛しそうに笑みを浮かべ見つめ返してくる彼の視線に耐えられなくなったのか、じっと彼を見つめ続けてきた瞳をふと逸らす。
その一瞬。
「好きだ」
心臓が止まるかと思った。
千尋は視線をばっとハクに戻し、目を丸くする。
そのすぐ後。
「----------っ!!」
声にならない悲鳴を上げ。
その場から逃げ去ってしまった。